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その翌朝、一度止んだ雨がまた降り出した。小沢克也の自宅へと家宅捜索が始まる。もちろん海老名と高木も何食わぬ顔で参加。だが事件の決定的な証拠は何一つ見つからなかった。裏庭の地面が少し掘り返されているのが発見されたが、何が目的であったのかは不明。それは小沢ですら知らないこと。
海老名たちの推測は正しかった。やはり丸出の推理と違うことが正しい。かくして小沢は再び容疑者からは山一つ遠のいた。
だが悠長なことも言っていられない。それならば犯人はいったい誰なのか? 児玉太一の新たなアリバイは客先の証言で立証された。芝塚元に関しても新たな情報は確認されていない。
そして自殺を図って一命を取り止めた小谷真樹ではあるが、面会を許可されたので、早速聞き込みを再開した。小谷は太一と別れ、太一の再婚相手に子供もできて以来、生きる望みを失っていたらしい。前から自殺を考えていたが、殺人犯の容疑者とされたことで踏ん切りがついたとか。自分が死ねば全ては解決されるはず。この世の苦しみからも。勝手に自分を殺人犯と疑えばいい、と。だが児玉望美の殺害はあくまでも否定した。そんなことをするぐらいなら、まず自分で自分を殺す、と。嘘はついていないと判断された。
「また事件は振り出しに戻ったな」藤沢係長の渋面が日に日に深くなっていく。
「小沢は引き続き拘束ですからね。さっきの家宅捜索で大したものが発見されなくても、小沢の犯行を疑ってる本庁の刑事は多いですから」と大森。
「小沢の拘束期限は明日の昼まで。ま、それまでに小沢が殺人に関わった決定的な証拠が出てくるか、自白でもすれば丸出の勝ちだな。あいつが笑顔でメシ食ってるとこを想像したくはねぇけど」海老名がため息を吐きながら言った。
だが丸出の顔が笑みで崩れていく予感は、一度後ろへ退いたかと思いきや、再び前進を始めたようだ。夕方、新田が署へ戻ってくると子供たち、特に児玉望美の同級生たちの新たな証言が得られたと報告をした。
報告によると、最近の望美はことあるごとにギターを弾く真似をすることが多かったらしい。架空のギターを弾きながら「マスター、マスター」と歌っていたとか。
「望美ちゃんがエアギターを弾きながら歌ってたのが、どんなジャンルの音楽だかはわかりません」新田がそう報告をする。「曲調やギターの弾き方からしてロックっぽいですね」
そこへ海老名の席のパソコンから、けたたましいヘヴィメタルの演奏が流れてきた。
「おい、エビ、もっと音量を下げんか」藤沢係長が耳の穴に人差し指を突っ込みながら文句を言う。
「今わざと音量を上げたんです。ちょっと聞いてみてください。俺の予測が正しければ、望美が謎の彼氏から聞かされてたのは、この曲ですよ」
「ん? 今『マスター、マスター』って言わなかった?」と新田。
「言ってますね。それもはっきりと」と大森も同意した。
「メタリカの曲ですよ。昔聞いたことがある」と海老名。「小沢はメタリカが好きでよく聞いてると言ってた。もし望美の言う彼氏があのナメクジのようにベトついたジジイなら、間違いなくこの曲でしょう」
「ということは、望美は小沢と顔見知りだった可能性が高いということか?」と係長。
「でしょうね。これでますます丸出の高笑いが現実のものとなってきましたよ」そう言いながら海老名はパソコンのマウスをクリックして、騒々しいメタリカの演奏を止めた。
その時、海老名の目に見覚えのある色彩がパソコンの画面から飛び込んできた。今見ていた音楽配信サイトの片隅にある広告欄。イスラム教の大きなモスクを背景に、「サマルカンドブルーの映える国、ウズベキスタンへ」とのキャッチフレーズが書かれた広告。なぜそんな広告が出現したのかはわからない。日頃から暇な時には、行く見通しすらない海外旅行のサイトを頻繁に見ていたせいだろうか。
その色彩は画像にあるモスクのドームから発していた。青を基調として少し緑がかった色彩。ターコイズブルー。そのターコイズブルーの光は海老名の頭の奥を照らし出し、眠っていた記憶を目覚めさせる。その記憶は眠い目をこすりながら他の記憶と手をつなぎ、横一列になって前進してきた。それも目を覚まさなくてもいい記憶まで。「あの花瓶には私が大事な金属を入れておいてあるんだから、触らないでいただきたい」と言う丸出の声も。
青ではあるけど緑でもある、というより青なのか、緑なのか。
海老名は保存していたある画像を開いた。
「新田さん、ちょっと、こっち来てくれない?」
新田が海老名の席の前に来ると、海老名はパソコンの画面を新田に見せる。
「これ、望美が描いた絵。このアジサイを活けた花瓶があるじゃん」と言って海老名はその花瓶の1つの箇所を拡大した。「この花瓶の色、青なのか緑なのかよくわからないとか言ってたよね? 俺が思うに青でもあり緑でもある。というより青と緑が融合した色を表現したいと思ってたんじゃないかな?」
そこでまた先ほどのウズベキスタンの広告を画面に出した。
「このモスクのドームの色に似てないか?」
「うーん、似てると言えば似てるような……」新田が首を傾げながら言う。「でもあまり自身持てない。あの望美ちゃんの絵、スマホで撮影したから、この画像からどんな色を表現したかったかよくわからないんだけど……エビちゃん、この色彩が何だと言うの?」
「俺、この色に近い花瓶、見たことがあるんだ。小沢の自宅で。あの花瓶、おそらく回収してないんじゃないかな? よく知らないけど。とにかくもし望美があの花瓶を描いてたとしたら、望美は小沢の自宅へ行ったことがある。つまり望美と小沢は顔見知りだった可能性がますます濃くなってきたということだよ」
「私、小沢の自宅でそんな花瓶を見た記憶はあまりないんだけど、本当にその花瓶を描いたものなのかな?」
「それはわからない。望美の絵を実際に見てみないことには。このぼやけたスマホ画像じゃ、よくわかんねぇよ。今すぐ見たいな。まだ学校、開いてるといいんだけど」
海老名と新田は児玉望美の通っていた小学校へと急行した。担任だった並木香苗もまだ学校に残っていて、早速3人は望美が勉強していた教室へと向かう。
子供たちのいなくなった薄暗い教室の中では、外の雨音が寂しさをつぶやいている。電気を付けると背面の壁一面には子供たちの描いた絵が展示されていた。
「これが児玉さんが描いた絵です」と並木は壁を指差した。
望美の描いた絵は新田が撮影したスマホの画像と細部に至るまでそのままだった。真ん中に青い服に薄紫のエプロンを着けた女の子。その足元にラーメンと思しき茶色いトイプードル。そしてその周辺は一面にアジサイの花。右側にアジサイを活けた例の花瓶が描かれている。これだけなら別にわざわざ実物の絵を見に来る必要はない。スマホの画像だけで充分だ。だが花瓶の具体的な色彩となると、確かに実物をよく見てみないことにはわからなかったのかもしれない。青でもない。緑でもない。ターコイズブルーと言えるほど完成された色でもない。それほど微妙な色彩である。
海老名と新田は絵に顔を近づけて、例の花瓶の色彩をじっと見つめながら考え込んでいる。
「これ水色なのかな? 黄緑色なのかな?」新田が絵を見つめたままつぶやいた。
「どちらでもあるし、どちらでもないな。ターコイズブルーとも程遠いし」と海老名も絵から目を離さずにつぶやく。「並木先生、先生には何色に見えます?」
「さあ、私にも何とも判断が付きませんね」と1歩下がった場所で並木が言った。「この色の花瓶が何か問題でもあるんですか?」
「望美ちゃん、この花瓶のことを何か言ってませんでしたか?」
「いえ、何も。この犬のことなら話してましたよ。ラーメンって名前だそうでして。『この犬飼ってるの?』って聞いたら、『んーん、友達が飼ってる犬なの』って」
「でもエビちゃん、この花瓶、実物は見たかどうか覚えてないんだけど、例のもののことで間違いないんじゃないかな?」と新田。
「俺もそう思う。間違いない。あの花瓶には何かがある」海老名が焦りを覚えながら言った。
2人はそのまま小沢克也の自宅へと向かった。すでに許可は得ている。2度目の家宅捜索を行う気なのだ。
すでに夜になり、昼間でも暗い居間を闇がさらに黒く塗りつぶしている。電気のスイッチを入れると、早速ターコイズブルーの色彩が輝き出した。
「これが例の花瓶?」新田が戸棚に近寄りながら言う。「確かに望美ちゃんの描いた絵にあったのと似てるような気がする。私、気づかなかった」
「結局この花瓶は問題なしとみて回収しなかったわけか」海老名が軍手をはめた両手で揉み手をしながらつぶやいた。「俺の予感が正しければ、これが大問題かもしれないんだよ。花瓶の中に何かを隠してるかもしれないんだ。丸出だってやってたし。純金になるかもしれないだってさ。どうせ犬の糞にしかならないだろうに」
海老名は慎重に花瓶を両手で持ち上げ、軽く揺すぶってみる。すると何やらカラカラと金属がぶつかるような音がした。今度は逆さにゆっくりと倒してみる。口の前に差し出した海老名の右の掌に何かが滑り出てきた。
それは番号が彫られた小さなプラスチックの付いた何かの鍵だった。
「俺の思ったとおりだ。今回だけは丸出の勝ちだな、まぐれだけど」海老名は掌の鍵を見つめながら、悔しそうにつぶやいた。
「これ、コインロッカーの鍵かな?」新田が聞く。
「おそらくな。あーあ、面白くねぇ。まぐれでもヘボ探偵が警察に勝っちまったんだもん。何やってんだ、俺たち税金泥棒は」