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夕方の捜査会議。ただでさえ行き詰っていた捜査が窒息死を起こしそうな嫌な予感がこの暑い中、コートを着て大会議室に入場してきた。ベレー帽にパイプ煙草、トレンチコートの下はランニングシャツにステテコ姿の疫病神が……
誰が呼んだのかは知らないが、丸出為夫は捜査本部長である池袋北署の河北昇二署長の隣で偉そうに座っている。どうせろくなことにはならない。海老名は会議に参加せず、とっとと早退しようかと思ったが踏みとどまった。
これまでの聞き込み捜査の報告がひと通り終わった後、よせばいいのに河北署長は余計な一言を丸出に言ってしまった。
「丸出先生、何かご報告があるそうで」
爆弾は落とされた。これで捜査は時空を超えて斜め上に展開し始めたのである。丸出は変質者同然の格好のまま堂々と席を立ち上がったかと思うと、支援者を目の前にした政治屋のように演説を開始。しかも参加者の視線が集中する前に結論を先に言ってしまう。
「犯人は小沢克也ですぞ」
大会議室は一瞬だけ凍り付いた。冷房の設定温度が異様に低いわけでもないが。これで捜査がろくでもない方向に進むことを、その場にいた全員が予感したとも言える。それにもかまわず、丸出の演説はその先を進む。
「あの暗い表情、幼い子供に対する欲望を隠してますな。しかもそれを眼鏡で覆い隠している。それから白髪交じりの汚い長髪、血に飢えてるのは一目瞭然です。この見た目だけでもすでに私が犯人ですと言ってるようなものですぞ」
「見た目だけで犯人だと決めつけるんなら、おっさんも間違いなく犯人だな」と海老名が野次を飛ばした。
「エビちゃんは黙ってなさい」と丸出が一喝する。「見た目だけではありません。小沢が犯人だという確かな証拠を私は手に入れました。これです!」
そう言って丸出はコートのポケットに手を突っ込むと、何かを取り出して机に叩き付けた。しかも素手で。小さな白い布のような物はポリ袋に入ってもいない。丸出はそれを両手に持って端を広げる。女性用の下着のようだ。
「見てのとおり、女性用のパンティです。この大きさからすると小学生用ですな。このようなものが小沢の家の物干しざおに干してあったのです」
会議室全体が疑問符で埋め尽くされた。
「本当ですか、丸出先生」署長の目にも疑問符が覆いかぶさっている。
「おっさん、またどこかから盗んできたんじゃないだろうな」と海老名がまた野次を飛ばす。「以前証拠をでっち上げるために相手から盗みを働いたことがあるだろう? また逮捕されたいのか? 今度は絶対に許してやらないぞ」
「エビさん、丸出先生を侮辱するようなことを言わないでください」となぜか高木が抗議した。
海老名は思わず呆気に取られてしまった。高木の顔を見ながら声も出ない。
「そうですぞ、エビちゃん、この若者だって言ってるじゃないですか」と丸出は手に持った女児用のショーツに自信を吹きかけながら言った。「私だって法に触れるようなことをしてるわけじゃありません。確固たる自信と推理からそう述べているのですぞ。私の名推理に嫉妬しないでいただきたいですな」
「仮にあんたの言ってることが本当で、本当に小沢の自宅にそんなもんが干してあったにしてもだ、一民間人でしかないあんたが勝手にそんなものを持ってきたってことは、立派な窃盗罪だぞ。今すぐこの場で逮捕してやる」と海老名が目くじらを立てる。
「丸出先生、小沢に対して何か個人的な恨みがあるわけじゃないですよね?」と署長。
「別にありません。ただ推理の結果として小沢が犯人だという結論に達しただけです」丸出が椅子に座り直しながら言う。
「なるほど、先生のおっしゃることが本当なら、物的な証拠としてはかなり有力ですね。採用しましょう……あ、海老名さん、どうかご静粛に。丸出先生の行為に関しては大目に見てください。先生も我が署に貢献してるんです。確かに小沢克也はかなり怪しいわけですし。ただ小沢にはアリバイがあります。このアリバイが崩れない限り、小沢を犯人と決め付ける段階にはまだ達していません。事件当時埼玉へ行ったのなら、目撃情報があるはずです。小沢の自宅周辺、さらに池袋駅周辺での聞き込みを強化しましょうか」
「これで小沢克也は容疑者リストから消えたな」
会議終了後、藤沢係長が吐き捨てるように言った。今までの経験からしても、丸出の出鱈目な推理が当たった試しがないからだ。丸出の言っていることと違うことが正しい。これが刑事たちの一致した意見である。
「それよりも何とかして丸出の奴を逮捕したいですね」と海老名も吐き捨てるように言った。「署長は甘すぎる。理由は知らないでもないけど……とにかく何とかしてあいつをムショにぶちこめないかな? 目撃証言があると大助かりなんだけど」
「そうだな。目撃証言が得られれば、署長だって大目に見ることはできんだろう。今度こそあんな変人を厄介払いできないものかな?」
「それよりブー君が丸出のおじさんを先生扱いしてたのも、ちょっと気になるわね。最近あいつかなり変」と新田が言う。「まあそれはともかく、小沢が犯人じゃないとしたら、誰が犯人なんだろう? 残りは児玉太一、小谷真樹、芝塚元。どれも今のところ殺害動機は不明確。何より決定的な証拠もないしな」
「地道に聞き込みを続けていくしかないだろう」と係長。「殺害されたのが小学生の子供なら、同世代の子供たちに聞き込んでいくのが一番の近道かもしれない。新田さんなら多少は慣れてるんだよな? 難しいかもしれないけど、何とか地道に続けてくれないか?」
その翌日、事件にいくつかの進展が見られた。まず児玉望美の義父である太一。犯行時刻と思われる夕方6時過ぎから2時間ほど外出していた事実が判明したのだ。当時は終電間際まで終日会社の中にいたはずではあるが、これで鉄壁と思われたアリバイが崩れ始めた。
「ちょっと急に客先との用事ができましてね、あの雨の中仕方なく出かけたんですよ。まあうちの会社、こういうことが頻繁にありましてね、社員みんな、そんなことが珍しくないんです。みんないちいち他の社員のことに構ってられませんよ……何度も言うようですが、甥の友之助にあんなことを言った覚えはありません。小学生の子供に色目を使うなんて、僕にそんな趣味はありませんよ。しかも血が繋がってないとはいえ、僕の娘ですよ。友之助の奴、酔っ払って変なことを記憶してただけじゃないんですか? とにかくこれ以上変なことを嗅ぎ回るのはやめてほしいものですな。僕が変態だなんて噂が広まったらたまったものじゃないし」
太一の勤務先は大手町。大塚から片道1時間もかからない。遺体の処理はともかくとして、殺害だけなら充分に時間は取れるはず。一度水没しかけていた太一の周りで水が引き始めた。
小児性愛者だった芝塚元。望美の行方がわからなくなり出した日の夕方ごろに、芝塚を見たという目撃証言を得ることができた。ちょうど望美が通っていた小学校の近くで女児たちを見ていたと言うのだ。信憑性があるかどうかはともかくとして、証言の裏を取るために海老名は芝塚の自宅を訪れた。
芝塚の親方である大成広の言うとおり、芝塚の部屋は一面にアニメや漫画の女性キャラのポスターやグッズであふれていた。典型的なアニメオタクに偽装しているようである。その女性キャラの設定年齢は明確ではないが、全体としては幼い子供が多い印象。大成の証言どおり、生身の女性には興味をなくしたとか。
「確かにあの日あの時間にちょっと外出しましたよ。風邪ひいてたからドラッグストアへ薬買いに。その時に小学校の近くを通りましたね。近道ですから。子供たちも何人か見ましたけど、もうどうでもいいって感じですよ。俺、いつまで疑われなくちゃいけないんですか?」
今一歩踏み込める点はないと判断した。
捜査とは直接関係がないが、丸出とよく似た格好の人物がアパートの部屋のベランダに忍び込み、子供の下着を取るのを見た、という目撃証言も出てきた。だが今のところその情報もわずか1件のみ。信憑性があるのかどうかもわからないし、立件しようとしても署長たちが情報をポケットに突っ込んで、何もなかったことにする気であろう。ベレー帽にパイプ煙草、トレンチコートの下は裸に近い怪しい人物が徘徊しているという情報は、屑籠からあふれるぐらいに寄せられてはいるのだが。そのうちその変な格好の人物が児玉望美を連れて歩いている姿を見た、という証言も出てくるだろうが、あの署長の前では何も期待できまい。
一方で意外な出来事も起きた。児玉太一の元妻である小谷真樹が自殺を図ったのだ。部屋のガス栓を開け、睡眠薬を大量に服用し、手首を包丁で切ったとか。原因は今のところ不明。発見が早かったので命に別状はない。ただし当分の間は静養が必要と判断され、警察を含めて面会は謝絶状態。
「こりゃ事態は混沌としてきたな。どこへ進むのか予測もつかなくなってきたぞ」と海老名はつぶやいた。
さらには海老名たちが関心を失っていた小沢克也ではあるが、アリバイがもろくも崩れてしまった。埼玉県志木市に住む翻訳業の吉野功介(64歳)に刑事がしつこくアリバイを確認したところ、初めは粘って小沢のアリバイを立証していたが、その発言は端からどんどん崩れて矛盾があらわになり、ついには小沢から頼まれて嘘を言っていたことを認めてしまったのだ。吉野は今にも死にそうなほど弱気な老人。ギャンブル好きで多額の借金を抱えていた。小沢から1万円もらったとか。近所で殺人事件が発生した、引きこもりで見た目も悪い自分が疑われるかもしれない、もちろん自分が犯人ではない、だが万が一のために、その時間帯は吉野の自宅にいたと証言してほしいと……
そこまでして警察を恐れていること。信憑性はまったくないが、丸出が女児のショーツを手に入れてまで犯人であると力説していること。とりあえず材料はそろったと言える。警察は小沢を重要参考人とみなして任意同行を求めに行った。
「嘘でしょ? まさか今回は丸出の推理が正しかったってこと?」新田が戸惑いながら言った。
「いや、まだわからない。当たりにしても、まぐれだろう」海老名も不安顔で言った。「ただ、アリバイが嘘だったってのは大きいよな。別に小沢が犯人じゃなけりゃいいと願ってるわけじゃないが」
「ま、他の容疑者にも動きが出て来たからな。どういう方向に進むのかはわからんが」と藤沢係長も仏頂面をして言った。「特に小谷真樹だな。なぜ自殺なんか図ったのか。早く理由が知りたいもんだ」
「でも小沢が重要参考人になったのはすごく気になる」新田が落ち着きなく言う。「さっきちょっと望美ちゃんの同級生に聞き込んでみたんだけど、望美ちゃんに彼氏ができたという証言は本当みたい。他にも何人か知ってる子がいたもん」
「本当か新田さん。で、その望美の彼氏って誰なんだ?」
「そこまではまだわかりません。具体名は上がりませんでしたし、どういう男なのかも彼女たちは知らないみたいでした。あまり突っ込んだ追及も子供たちを怯えさせることになりますんで」
「なるほど。でも何とかもう少し詳しいことを聞き出してくれないかな? 他に変わった様子がなかったかどうかとか」
「わかりました。引き続き聞き込んでみます」
「あーあ、望美に彼氏ができたって噂は本当だったんだ」と海老名。「新田さん、30年以上年下の子に追い越されちゃったね」
「エビちゃん、私より先に死んでほしいな。エビちゃんが死んだら段ボールの棺桶に入れて、アジサイの花で中をいっぱいにしてあげるから」