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かくして児玉ひかりは容疑者に浮上した途端、沈んだ。他には児玉太一、小谷真樹、芝塚元の3人。もっとも怪しいとにらんでいた小沢克也は同業者の証言によると、事件当日に同業者の自宅に泊まり込んでいたことがわかり、アリバイが成立した。
「え? アリバイが成立したの? 嘘でしょ?」新田が眉根をしかめながら言う。
「俺も何だか疑問に思うんだけどね」と海老名も言った。「あのヌメヌメした陰気な湿気の塊みたいな奴。ここにいても、あいつの体臭が署の中に入り込んできそうだね。もう一度アリバイを聞き込んでみるらしいけど、当然だろ」
「ということは小沢も変わらずに容疑者として捜査の対象ね」
「そうだな。それよりこの雨、いつまで降り続くんだ? しかも雨が降って気温が30度近いってんだから、たまんないね。こんな日に聞き込みには行きたくないな」
海老名と川口は小児性愛者としての前科がある芝塚元の仕事先へ聞き込みに出かけた。外は相変わらずの雨。覆面パトカーを運転する川口のハンドルさばきもぎこちない。
「Merde! またスリップしそうになった。Monsieur海老名、運転変わってくれませんか? あなたの方がここら辺の地理には詳しいと思うんですがね」
「だから俺は事情があって車を運転できないって言ってんじゃん。所轄の刑事は本庁の召使いじゃないんだから。悪く思わないでくれない?」
「Monsieur海老名が酒気帯び運転で免許を取り上げられたって噂は本当なんですか?」
「噂は噂。でも噂っていうのは本当に怖いね。猫より怖いわ。放っておくとプルトニウムでも爆弾でも何でも拾って戻ってきちゃうんだから」海老名は飼い猫のうり坊のことを考えながら言った。うり坊はかつて、実弾の入った錆だらけのピストルを部屋に持って帰ってきたことがあるのだ。
目的地に着いて車を降りると、この雨の中で黒い傘を差した怪しい男が電信柱の隣で独りたたずんでいた。ベレー帽にパイプ煙草、トレンチコートの下は白いランニングシャツに白いステテコ姿の変質者……
「どこから俺たちの行く先をかぎ付けてくるのかな、あいつ。さっさと逮捕してこの心の中の雨雲を消し去りたいよ」海老名がビニールの透明な傘を差しながら憂鬱につぶやいた。
「やあ、Monsieur丸出、Ça va ?」と川口が陽気に声を掛ける。
「サバですか。うむ、鯖は塩焼きに限りますな。味噌煮やしめ鯖となると鮮度が落ちたものしか使いませんから」と丸出為夫は真面目な顔をして言う。
「Non non, Monsieur丸出、調子はどうですか、と聞いてるんですけどね」
「相変わらず暑いですな。薄着してもまだ暑い。下着も脱ぎたいもんですよ」
「おい、おっさん、ここで下着脱いだら即逮捕だぞ」と海老名が言った。「川口さんさ、こんなバカ相手にするなよ。見てのとおりの変質者なんだから」
「いや、でもMonsieur丸出にはお世話になってますから……」と川口がつぶやく。
「そうですぞ、このポアロ君は優秀ですからな。何と言っても灰色の脳細胞の持ち主ですぞ。シャーロック・ホームズの生まれ変わりである私の良きライバルです」と丸出。
「いやいや、私はポアロと言われるほど優秀でもありません」
川口はポアロ……フランス語が話せる、口ひげを生やしている、見てくれだけのポアロ。ポアロと言われるほど優秀でもない、と謙遜してはいるが、それは本人も理解しているのだろう。それだけでも丸出よりは1万倍以上ましではあるが。ただポアロと呼ばれて本人も満更ではないと見える。川口はすっかりにやけ顔。傘を差しながら、そのまま今にもどこかへ飛んで行きそうな状態。
「とにかくポアロ君さ」海老名が言葉に皮肉を噛み締めながら言う。「早く行こうぜ、こんな奴は無視無視。俺たちは仕事してるんだから。自称シャーロック・ホームズの生まれ変わりと通称ポアロ君とで、阿呆陀羅談義をしてる場合じゃないだろ」
「エビちゃん、私だって仕事をしてるんですぞ」丸出が訴えた。「あの有限会社サニー・デイに用事があるみたいですな。私もサニー・デイに用事があるんですよ。聞き込み捜査なら私もお供しますぞ」
「断る。そんな服装をした奴と一緒に歩けるか。だいたい子供たちの目撃情報でも、同じ格好をした怪しいおじさんを見たって多くの意見が寄せられてるんだぜ。せめてその服装は改めろ。話はそれからだ」
「ねえポアロ君、エビちゃんは酒気帯び運転してね……」
「え? じゃあその噂はやっぱり本当だったんですね」と川口は言った。
「それよりポアロ君、この丸出先生はなぜいつも帽子なんかかぶってると思う?」と逆に海老名は笑顔で言った。「実は先生の後頭部は……」
「ぐぬぬぬ! エビちゃん、やっぱり知ってるんですな」と丸出が悔しそうに言う。「私の後頭部がはげていて、それを隠すことが目的で帽子をかぶってることを」
「自分でばらしてどうするんだ? あんた本当にバカなのか利巧なのか、さっぱりわからんな。とにかく付いて来るなよ」
だがMonsieur丸出のお知恵もお借りしたい、と言うその裏で冷や汗が出てきそうな川口の意見によって、丸出も海老名たちと同行することになってしまった。この川口も丸出に弱みを握られているだろうことは間違いない。
3人は有限会社サニー・デイの入口を入ろうとした。まず川口が中に入り、次に海老名が。最後に丸出が中に入ろうとしたところで、海老名が声を掛ける。
「あ、そこにベレー帽が落ちてるぞ。おっさんのじゃないのか?」
丸出が突然帽子をかぶった後頭部を押さえたまま、足元をキョロキョロ見まわしているうちに、海老名は会社の扉を閉め、鍵を掛けてしまった。
「うー、エビちゃん! またしても私をだましましたな? こうなったら酒気帯び運転の件を大声で言い回してやる!」と扉の外から丸出の怒鳴り声が聞こえてきた。
勝手にしろや。その服装では誰も相手にしないって。子供から白い目で見られている変質者として、さっさと巡回中の制服警官に逮捕されてしまえ。海老名はニヤリと笑った。
サニー・デイは経営者の大成広の自宅を改装しただけの小さな会社だった。従業員の数も少ない。50代後半の大成は社会更生を手伝うために元受刑者を従業員として雇っているので、池袋北署でもよく知られた人物である。
「芝塚は今日は元気に仕事出てますよ。あいつがいた方がよかったですかね?」力士を思わせる縦にも横にも大きな身体を、窮屈そうにソファに埋めながら大成は言った。
「いや、むしろいない方がいいんです。その方が客観的に話を進めやすそうなんで」と海老名が対面のソファに腰掛けながら言った。
話はまず最近の芝塚元の様子について。特に変わったところはなし。刑期を終えて、この会社に雇われてからの芝塚の様子については、
「幼い女の子に興味を持つのはやめたと聞いてはいるんですが、今度はアニメや漫画に出てくる目の大きな女の子にしか興味を持たなくなったみたいですよ。あいつの部屋ん中もアニメのポスターだらけでして。生身の女には興味がなくなった、生身の女は臭い、だそうで」
「子供を追い掛け回してるようなことはないんですか? 近くの小学校の校門前で子供たちを見ているとか」と海老名が質問する。
「ないみたいですね。最近はむしろ子供たちを避けてるみたいなんですよ。うちの孫なんかにも寄り付こうとはしないぐらいでして。もう完全に子供には興味がなくなったんですかね? それとも子供への興味を無理矢理抑えつけてるとか。そこのところはわかりませんな。本人に問いただしても本当のことを言うのかどうか……」
夕方、署へ戻ってみると、中では嵐が吹き荒れていた。先日から妙に機嫌が悪かった高木が、また別の人間と喧嘩をしていたのだ。相手は今度は新田。新田が怒る原因は40を過ぎても未だに独身であることと、BLにはまっていること。話を聞かなくとも予想はできる。両者の嵐のような口論が続き、藤沢係長が雷を落として一喝。高木がどこかへ退散して何とか嵐はやんだ。
「ブーの奴、何怒ってたんですか?」と海老名が聞くと、
「よく知らんが捜査方針のことで新田さんの言うことが気に入らなかったらしいんだよ」係長がまだ心の中でくすぶる雷鳴を抑えながら言った。「そしたらブーの奴、新田さんのプライベートに関わる部分で軽口を言ってな。まったく年上の先輩に向かって、あの口の聞き方は何だ? 小沢の自宅で段ボールの棺桶を作るのに使ったかもしれないガムテープの芯を見つけたり、今回あいつ結構活躍してたのに、今日はいったい何なんだろうな。本当にどうかしてるぞ」
「ブー、私の妄想の中の王子様を侮辱するなんて、断じて許せない」新田が怒りで顔を真っ赤にしたままつぶやいた。