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それから程なくして、小学校の校門前で子供たちを眺めていた、例の長髪の男の身元が判明した。小沢克也(51歳)。職業は翻訳家。児玉望美の遺体発見現場から100メートルほど離れた一軒家に1人住まい。青木夏子の甥だという。海老名は早速、高木と警視庁本庁の川口学という刑事とともに小沢の自宅へと聞き込みに出掛けた。
この川口という刑事がまた本庁でも変わり者として有名だった。フランスに本部があるインターポールに勤めていた経験(事務仕事のみではあるが)があるせいか、フランス語が堪能ではある。だが取柄といえば、ただそれだけの凡庸な刑事に過ぎない。誰が見ても典型的な日本人なのに、通常の日本語の会話にフランス語が混じることがあって、それだけで周りから煙たがられる。似合わない口ひげを生やして気取った態度。いつも床から1センチほど身体が浮き上がっているような、要はただの間抜けだった。池袋北署の刑事の間でも当然評判が悪い。海老名も彼を避けている。
だがこの川口と海老名とは不思議と馬が合う。海老名が大学で第2外国語としてフランス語を専攻したことで、少しはフランス語が理解できること。読書家でフランス文学にも少しは通じていることもあってか、川口も海老名には一目置いているのだ。
「やあ、Monsieur海老名、お久しぶりですね。Comment allez-vous ? また一緒に仕事ができてうれしいですよ」
3人は高木の運転する覆面パトカーの中にいた。
「ところでMonsieur海老名、最近はフランスの小説は何をお読みですか?」と後部座席で偉そうに構えている川口が声を掛けた。
「最近のフランスの小説なんてピエール・ルメートルぐらいしか読まないね」助手席の海老名が面倒臭そうに言った。
「ほう、あの大衆作家ですか。随分と底が浅いですね。せめてミッシェル・ウエルベックぐらいは読まないと」
「ウエルベックなんてクソだ。ケツを拭く紙にもなりゃしない。そのまま丸ごと便器に放り込みたいね。だいたい大衆作家なんて馬鹿にしてるけど、文学の基本は全て大衆文学だよ。シェイクスピアだってドストエフスキーだって大衆文学を書いてたつもりなんだぜ。それを後世の評論家が純文学の文豪だなどと祭り上げてるだけなんだから」
「Non, non. シェイクスピアやドストエフスキーの時代に大衆なんていないも同然でしたよ。当時の一般大衆は字の読み書きができなかったんですから。字の読み書きができる人は、みんな知識も教養も高かった。だから昔の文学作品はみんな質が高いのです」
「みんなとは限らんだろ。歴史にも残らないような駄作だってたくさんある。今とは数が違うだけだ。とにかく純文学も大衆文学も関係ない。読んで面白いと思える作品こそが優れてるんだよ。それ故にルメートルは優れてる。ルメートルを読んでると言っても恥ずかしくはない。以上。ところでブー、今の話、理解できたか?」
「うーん、俺からしてみれば別の惑星の話にしか聞こえないんですけどね」と高木は車を運転しながら、しかめ面をして答えた。
「Monsieur高木、これは地球での話ですよ。このくらいの教養を身に着けておくのは、刑事としても大変に有用です」と川口が言う。
「ま、このクソ暑い時期に分厚いコートを着るのと同じぐらいの有用性だけどね。丸出みたいに」と海老名がつぶやいた。
車は小沢克也の自宅前に着く。それ程大きな家でもない。築年数は50年ほど。入口の門構えだけが高い塀を築いていかめしいが、それに比べて中の住宅は小さめで、かなり見栄を張っているようである。
小沢は噂どおりの人相をした男だった。白髪の混じった汚い長髪。その髪の脂が眼鏡や顔の暗い表情にまで付着しているように見え、不潔感が羽音を立てている。しかもそんな薄気味悪さが高い背丈で迫ってくるものだから、見る者に威圧感を与えるようで、場の空気が息苦しい。
「両親は2人とも他界しましたから、この家に1人暮らしですよ。あまり大きな家ではありませんが、僕1人では広すぎるぐらいですね」小沢は重く粘つくような暗い口調で言う。
部屋の中は掃除もろくにしていなく、所々に埃がたまっていたりする。外の重い湿気を数十倍圧縮して室内に閉じ込めたような圧迫感。照明を付けても部屋の中はどことなく薄暗い感じがして、居間の壁もソファもテーブルも、満開を終えたアジサイのように萎れているような印象を受けた。
そのように萎れた居間の中で、唯一きれいに輝いている箇所があった。古ぼけたガラスケース付きの戸棚の上にある花瓶。緑がかったターコイズブルーの釉が印象的である。花は何も活けてはいない。だが明らかに埃も拭きとられて照明が反射している様子は、さながら南国の珊瑚礁を見るようだ。
「あの花瓶、なかなか見事じゃないですか」と海老名が指を差して言う。「買ったのは最近ですか?」
「いや、もうかなり古いですよ」小沢が花瓶とは対照的な色あせた表情のまま言う。「もう10年ぐらいたちますかね。亡くなった母がシンガポールへ行った時に現地で買ったものらしいんですよ。色がきれいだから、という理由でして」
聞き込みに際し、児玉望美が通っていた小学校の校門前で子供たちを眺めることはよくあることだと言う。ちょうどコンビニエンスストアへ買い物に行く際の通り道に当たるし、自分も昔通っていたことがあるので、どこか懐かしい気持ちになるのだとか。ただそれ以上の気持ちはなく、ましてや子供たちに邪な感情を抱くことはないとのこと。望美とも面識はないとか。息子が出てくるのを待っていたと言う、とある学童指導員の証言も否定した。
「僕は結婚したことはありませんし、子供を作ったこともありません。あの黄色い旗を持った人たちから声をかけられた記憶もありませんよ。でも僕の容姿ってそんなに人目を引くのですかね? 髪伸ばしてるのも特に意味はありません。床屋へ行くのも面倒臭いし、ヘヴィメタが好きなもんで」
「ヘヴィメタですか。ヘヴィメタにも色々ありますが、特にどのようなアーティストが好きですか?」と高木が質問する。
「メタリカですね。大ファンなんですよ。来日するたびにコンサートを見に行くし」
「メタリカですか……あまりよく知りませんが」
「まあ、少し昔のバンドですから、こいつぐらいの世代なら知らないのももっともかもしれないですけどね」と海老名が言う。「ところで小沢さん、翻訳の仕事をしてると伺ってるんですが、仕事は主に在宅なんですか?」
「在宅ですね」と小沢。
「ということは、外にもあまり出ない、と」
「ええ」
事件が起きたと思われる時間帯、小沢はたまたま同業者の部屋に泊まり込みで仕事をしていたと言う。特殊な医学用語が頻繁に出てくる英語の論文を翻訳する際、その参考文献が膨大な数になるので、その文献類を所有している同業者の自宅で仕事をするしかなかったとか。その同業者の氏名と住所、電話番号を海老名たちに伝えた。60代の老人で住まいは埼玉の志木市。
聞き込み終了後、3人が外に出て車に乗ろうとした時、高木がハンカチで覆った何かを手に持っていたのを川口は見た。
「Monsieur高木、Qu’est-ce que c’est ?」
「ケ……ケツクセ?」
「それは何だ?って言ってんだよ」と海老名が苦笑しながら説明してあげた。
「あ、ああ……見ての通り、ガムテープの芯です」高木は2人の前に見せた。「あの家の玄関前の靴箱の上に置いてあったんです」
「玄関前にね……なるほど、そのガムテープで望美の棺桶を作ったかもしれないってか。指紋が取れるかもしれない。よく気付いたな、ブー。これでおまえも巡査長に昇進だ」
「おだてないでくださいよ、エビさん。この雨の中、木に登っちゃいそうになるじゃないですか……それにしてもあの小沢って奴、見るからに怪しい奴ですね」
「ああ、目がよどんでたしな。よどんでる上に猛毒を持った蛇が潜んでそうな目だった。あいつは徹底マークした方がいい」
「でも話そのものには特に問題はありませんでしたよ」川口が言う。「後はアリバイさえ実証できればシロだと思います」
「そうかもしれないが、どこか気になるな。何か得体のしれない魔物をあの家の中に飼ってるような、そんな感じ。胸騒ぎがする」
「考え過ぎですよ、Monsieur海老名。あの手の暗いヘヴィメタ男は世の中珍しくありませんからね。刑事ならもっと理論的に考えないと……ああ、Merde! 雨脚がひどくなってきた。早く車に乗りましょう」




