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児玉望美が通っていた小学校の担任教師・並木香苗(36歳)の話によると、望美は先月10歳の誕生日を迎えたばかり。6月の梅雨の時期に生まれたからかどうかは定かではないが、アジサイの花がとても好きで、今の時期に限らず1年中アジサイの花を描いているらしい。だからあちこちでアジサイが咲き乱れるここ最近は、いつも以上に上機嫌だったとか。将来は花屋になって1年中アジサイに囲まれていたいと作文にも書いていたという話。望美がアジサイを好むのは自分の誕生月に咲く花だから、というだけではないようだ。他にも春に咲く青いネモフィラも好きらしい。
「どうも青という色が好きらしいんですよ。絵を描く時にも常に青が中心になってましたし、服も青系統の色を着てくることが多かったですね。女の子ってピンクを好むことが多いですけど、ちょっと珍しいなって……」ここで並木は感極まって目頭を押さえた。小柄で生徒たちと背丈の区別がつかなそうな女性。
並木の話によると、望美はごく普通の少女ではあるが、どこか神秘的なところがあると言う。表情に乏しく、感情をあまり表には出さないらしい。うれしい時、悲しんでいる時、怯えている時は何となく態度でわかるのだが、表情に出てこないので何を考えているのか少々理解できないところがあるとか。
「あの子の家庭事情については存じてます。それが影響してるのでしょうか?」
聞き込みをしてきた新田は捜査資料の一環として、望美が図工の時間に描いた1枚の絵をスマートフォンで撮影してきた。「将来の夢」という題名で描いた絵。お世辞にもあまり上手とは言えない絵ではあるが、何を描いているかは何となくわかる。自分が花屋の店員になって、色とりどりのアジサイに囲まれている絵……
「この真ん中のエプロンを着けた女の子は望美だってわかるんだけど……」海老名が大きく引き伸ばされて印刷された絵を見ながら言う。「その隣の茶色いウンコみたいのは何だ?」
「エビちゃん、例え悪すぎ」新田が隣で不満を言った。「今私チョコレート食べてるの知ってて言ってんでしょう。私には熊か何かに見えるな」
「トイプードルじゃないんですか? 僕にはそう見えるな」大森が緑茶を飲みながら言う。「トイプードルが2本足で立ち上がってるような、そんな感じ」
「望美の一家って犬飼ってたんだっけ?」と海老名。
「義理の父親の児玉太一が言うには、ペットは飼ってないらしいですね」
「トイプードルっていえば、第1発見者の青木夏子が飼ってる犬も茶色いトイプードルだったわよね」と新田。
「実質的な第1発見者、第0.5発見者と言うべきかな?」と海老名。「確かラーメンとかいう名前だろ? そんなうまそうな名前つけたら、そのうち誰かに食われちまうぜ。そういえば青木は望美のことをよく知ってるみたいだったけど、青木と望美ってどんな関係なんだろう?」
「青木の孫が望美ちゃんの友達で、よく青木の家へ遊びに行ってたんだって。家も一軒家とマンションだけど、隣同士だし。それでラーメンとかいう犬とも親しかったと言ってた」
望美の絵に描かれているのは、他にはアジサイを活けている植木鉢や花瓶など。その中でもとある花瓶に3人の目が集中していた。その花瓶の色は何色と表現すればいいのだろうか? 絵の中では水色と黄緑色の絵の具を混ぜ合わせて使っているようだ。
「何か不思議な色よね」と新田が相変わらずチョコレートを食べながら言う。
「あまりきれいな色とは言えませんね」と大森が緑茶をすすりながら言う。
「青い空と緑の森とが溶け合って……溶け合いきれずに喧嘩して、あちこちに散らばってる感じかな?」と海老名がコーヒーを飲みながら言った。
そうやって3人は小さなテーブルを囲んで角突き合いながらその絵に見入っていた。集中力を方向転換する爆弾みたいな人影が近寄っているのにも気づかず……トレンチコートにベレー帽、口には火の点いていないパイプ煙草をくわえた人影。
「おや、みなさん、この暑いのに仕事場で鍋でも囲んでるんですかな?」
丸出為夫がそう言うと、予想通り議論は一瞬にして止まった。
「子供の絵を批評してるんだよ。あんたの頭の中よりはよっぽど整理整頓されてる絵をな」と海老名がうんざりしながら言った。「それよりおっさんさ、まさかその格好のまま外を歩いて来たんじゃないだろうな? 分別のつかない子供だって、そんな変てこりんな服装はしないぞ」
「いやだ、おじさん、何その格好。まるで変質者そのまんまじゃないの」と新田が振り向きながら言う。
丸出のトレンチコートの下は、白いランニングシャツに白いステテコ姿であった。ズボンは履いていない。靴下も履いていなく、足はビーチサンダル。
「そろそろ暑くなってきましたからな。しかもこの雨でとても蒸し暑いんですよ。やはり暑くなるとこの格好が一番快適ですぞ」と丸出は恥ずかし気もなく堂々と誇らし気に言う。
「その分厚いコートを脱ぎさえすれば、それで十分じゃないか」と大森が言った。
「大森、このおっさんにそんなこと言っても無駄だ。このおっさんの頭の中は他の人間と構造が違うんだから。文化人類学でもこの頭の中を解明できんよ」と海老名。
「そうです。エビちゃんの言うとおりですぞ。私は天才ですからな。あなた方のような凡人とは頭の中の構造が根本から違うんです」と丸出は得意顔で言い続ける。「何と言ったって私はシャーロック・ホームズの生まれ変わりですからな。コート、帽子、パイプの3点セットは絶対に欠かせません。これの1つでも欠けたら私の天才的な推理能力は鈍ってきます。故にどんなに暑くてもコートは絶対に脱ぐことはできませんな」
「だからコートを脱ぐことができない代わりに、コートの下はどんな格好でもいいってわけだろ。もっと暑くなったら全裸のフルチンだな。その時こそ、このおっさんを逮捕する絶好の機会ってわけだ。早く梅雨が明けないかな?」
「それよりエビちゃん、今日はエビちゃんに苦情を言いにここへ来たんですぞ」
「俺に苦情を言いたいのなら、まずはどんなに暑くてももっとまともな格好してきてから言ってくれ。ここは殿中だ。せめて裃でも付けてこい」
「エビちゃん、私とワトソン君とが同性愛の関係ですって? しかも私が住んでるクリニックをゲイバーに改装することに決めたとか、変な噂を広めてるのは間違いなくエビちゃんでしょう?」
「俺じゃないよ。新田さんじゃないの?」
「私なわけないでしょ。責任なすり付けないで」と新田が怒って言った。
「とにかくエビちゃん、これ以上私に対する誹謗中傷はやめてください。さもないと酒気帯び運転の件を今度こそ警務課に訴え出ますからな!」と丸出は海老名をにらみ付けながら言った。
「ほう、俺の酒気帯び運転のことより、あんたの嘘の方がもっと罪が重いような気がするんだけどね。丸出為夫って偽名だろ? そんな変な名前はどこの役所にも登録されてないぞ。あんた、本名は何て言うんだ?」
「エビちゃん、ちゃんと私のことを調べたんですかな? 私の名は丸出為夫。ちゃんと役所にも届けてありますぞ」
「どこの役所だ? ソヴィエト連邦レニングラード市の役所か? 今でもそんな役所があればの話だけどな。言え、どこの役所にマルデダメオなんて自虐的な名前を届け出た」
「それはプライベートに関わることなんで言えませんな。だいたい私の身辺調査なんて迷惑です。やめていただきたい」
「あんたがここに来て臭い靴跡を残さなければ、俺だってあんたなんかに関心を持たねぇよ。でもあんたはとりわけ臭いんだ。地球の裏側にいても臭ってくる。それだけに放っておけないんだよ。燃えるゴミの日に出す前に、あんたの脳細胞を顕微鏡で拡大して、どれだけの危険な化学物質が含まれてるか確認しないことには、ゴミ業者だって回収してくれない。とにかく俺の言いたいことは、あんたはいったい何者なんだ?」
「丸出為夫、名探偵です」
駄目だこりゃ、やり方を変えよう、いつかはその化けの皮をはがしてやるからな。海老名の脱力感は深かった。




