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 その日の夜も、彼女との通話が始まった。 

 時田たちから言われたことが頭にあり、若干の気恥ずかしさがあった。煩悩を振り払って接する。


 白坂さんとの会話は、未だにガラス張りの細道を歩く気分だ。俺はまだ渡り終えていない。ちょっとしたきっかけで、孤独の中に戻ってしまう可能性がある。

 それは、今までのどの恥よりも耐えがたいものであり、避けなければならないことだ。


「今日はどうしたのかな?」

 俺はまるで医者かカウンセラーになったみたいに振る舞い、軽口を叩く。

「報告があって」


 報告とは堅苦しい単語だが、彼女の声は弾んでいるように聞こえる。


「聞かせてくれ」

「明日、元カレを嫐りに行こうと思って」


 思わず聞き返した。


「手伝ってくれる友だちがいたのか」

「うん。元カレをとことんまで苦しめたい、って頼んだらオーケーサイン」


「胸がすくだろうな。想像できる」


 声の調子から、心の底から喜んでいるのが分かった。目にものを見せてくれる、と勇む白坂さんはすっかり復調し、とはいってもファーストコンタクトが失意のどん底だったから元々が分からないのだが、とにかく快活だ。


 なんとなく気になり、俺は訊ねる。


「痛めつけたら、満足か? その、彼を許すのか?」


 向こうで、彼女が考え込むのが分かった。簡単に答えが出せるものではないだろう。


 忍び笑いのような声が聞こえる。俺は答えを待った。


「まあ……」と、間延びした調子で、答えを返す。

「態度によっては、許しちゃうかも」


 照れるような声だった。


「そうか」適当な言葉が見つからない。「そりゃ、いいな」


 模糊(もこ)とした感情が身を襲う。体内に出っ張りができたみたいに、焦りの含まれた、寒気のする感覚が生まれた。


「どうしたの?」

 黙った俺を変に思ったのか、白坂さんは訊ねる。


「さあ?」俺にも不思議だ。


「ところでさ、最近どう? またなんか、恥の上塗りした?」


 これから先、俺がどんな失敗をしても上塗りになる。だから彼女は、俺が精神的に死ぬような不運を、恥の上塗りと呼ぶのだ。


「ああ、テニスでボールを顔面に受けたとか?」

「大丈夫なのそれ」


 大丈夫、多分。


 この日の会話はどこかぎこちなかった。というのも、原因はおそらく俺にあるのだろう。どうにも円滑に進まない。それでも楽しそうに会話する白坂さんは、正直なところありがたかった。このまま雰囲気がずぶずぶと沈んでいくのは耐えられなかった。


 どうして、こんな気持ちになるのか理解できない。


 二十と少しばかりの人生で、浅い経験しか得ていない自分には、複雑な主義も思考も志しもなかった。自分を理解するのに必要なことは少なく、それ故に分からないことがあるなんて思いもしなかった。せいぜい、何故こうも不幸体質なのか、ということくらいだ。


「ねえ、面白い話があるんだけど」


 唐突に白坂さんが切り出す。


「話?」

 咳払いが聞こえた。


「あるところに猫がいました」

「猫か」

「猫は自由気ままで、飼い主はほとほと困ってしまいます」


 子どもの面倒を見る仕事に就きたいと望む彼女の語りは、実に様になっていた。


「猫はとても偉そうで、飼い主のことを見下しています。ある日、猫は家から飛び出して、町に逃げてしまいました。猫は、魚屋さんで魚を盗み、洋服屋さんで服を汚し、駐まってる車のタイヤをパンクさせ、銀行のお金を刻んで台無しにしたりしました」


「だんだんと規模が酷くなっていくな」

「飼い主は必死に彼を追いかけていきます」

「偉い」


「憎らしかったけど、愛してもいたの」猫の飼い主というのは、そういうものかもしれない。「それでね、飼い主はやっと猫を見つけたんだけど。さあ大変。


 飼い主に見つかった猫は逃げようとして、道路に飛び出します。そこへトラックがやってきて、轢かれそうになりました。それを見ていた町の人たちは、これまで猫がしてきたことに怒って、助けようとしません」


「へえ」場面を想像する。猫が無残にバラバラになる瞬間。それを見ているだけの人々。「自業自得とはいえ、嫌な感じだね」


「だけど飼い主は、勇敢にも道路に飛び出して、猫を助けました」

「ハッピーエンド?」

「えーっと、町の人たちはどうして助けたんだ、って怒るの。飼い主もみんなから憎まれる。でも、猫は飼い主に感謝して、今まで冷たくしてごめんって仲直りする。飼い主もそれを見て許す。ちょいハッピー、って感じです」


 それから、どうだった? と少し不安そうに訊ねてきた。


「子ども用にするお話なのか?」

「そう、わたしが作ったの」


「え、創作だったのか。子ども用なら、底抜けにハッピーな終わりの方がいいんじゃないか、ってのが率直な感想だけど」

「そうかなぁ。最近の子どもは頭が良いから、猫の自業自得って言い出しそうじゃない?」


「この話は、いつ作ったんだ?」

「えっとね、割と最近」


 嫌な想像が脳裏に浮かんだ。


 この話は、最近できたばかり。白坂さんは無意識か、自分と登場人物を重ね合わせたストーリーを作ったのではないか、という想像。


 つまり、飼い主は白坂さんで、猫は元カレ。復縁を望んで、考えたんじゃないだろうか。穿ちすぎた発想かもしれないが、一度思いついてしまってからは、かき消すのも困難だった。


「猫は魚屋から、タコを盗んだのか?」ふと、先日の夢の記憶が蘇った。

 白坂さんはきょとんとした、かのように間を置いた。「それでもいいかもね」と薄い反応をした。


「君はきっと上手くいく。明日、いい結果になるといいね」

 俺はそれだけ言って、通話を終えようとした。元気そうな「うん!」という声が聞こえる。「切」ボタンに触れ、スマホを床に転がした。


 自分の身体も転がし、物語の猫に思いをはせた。

「俺だったらどうする? 見捨てるか、助けるか」

 空虚な呟きが宙に溜まる。それを見ながら、眠ることにした。


 そして翌日。

 俺は「死んだ」という言葉を聞かされる。


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