新しい季節へ
「ねー!」
呼ばれている。
だが、それどころではない。棚の上にあるタオルを取ろうとしたら、足下の椅子が急にぐらつきだした。絶体絶命のピンチに陥っているのだ。
陥っている、というか、もう椅子の脚が折れた。
「危ない!」
背中から床に叩きつけられる。その寸前、両腕で受け止められた。完全にではなく、尻を打ち付けたが、頭を打つより全然マシだった。
「あ、ありがとう」
「いや、慣れたもんだけどね。君の不運にも」
「慣れて、受け止められるようになるのは凄い」
椅子に目をやると、脚が完全に折れている。そんな兆候はなかったのに。といっても、物が突然壊れるなんてのは日常茶飯事で、不運には他の誰よりも、自分が慣れている。
「あ、なんか呼んでなかった?」
「うん。そうそう」彼女はぱたぱたと居間に戻り、スマホを持って戻ってきた。「君に電話」
「電話?」
手渡された画面には、少し意外な名前があった。数ヶ月前にも同じように電話がかかってきたが、そのときは公衆電話からだった。
「もしもし」
「佐藤先輩、お久しぶりです」
「時田?」
聞き慣れた後輩の声だ。
風の噂で失踪したとかなんとか聞いていた。尾ひれがついた情報だろうと疑っていたが、ストーカーに悩まされていると言っていたので心配ではあった。
「生きていたのか」
「昨日、日本に帰ってきたんですよ」
「いや日本にいなかったことすら知らなかったんだが」
「言ってないですからね」
「いつから、どこに?」
「十二月から、二ヶ月くらい。タイへ」
「タイぃ?」
タイってどこだ。地理はめっぽう弱いんだ。そもそも、どういった理由で、とか、金はあるのかとか。聞きたいことはあったが、頭がクラクラしてきたので、今は流すことにした。
「俺はアメリカとかに行きたかったんだけど、鈴奈は漠然とヨーロッパあたりがいいって言うんですよ。ヨーロッパになにがあるのか詳しくないくせにね。で、間を取ってタイに決めました。日本人に優しい国だって言うんで。まあいいんじゃないかってね」
「鈴奈?」とは、日野の名前だったか。「一緒に行ったのか」
「最近、いなかったでしょ」
「あと少しで卒業だから。学校行かないんだよ」
「俺がいない間に、大学ではなんか変わりましたか?」
「行かねぇんだって! ……志村が、図書館出禁になったとは聞いたが」
「ははは。ついにか」
志村とは、春に執り行った合コンで知り合い、それから仲良くなった、ということもない。顔合わせたら会釈する程度にはなった。
「あ、十二月といえば」
クリスマスの日に妙な話を聞いた。あの頃は、まだ時田も日本にいたはずで、公衆電話から俺に電話をかけたのもクリスマスだったはずだ。
「クリスマスに、光る未確認飛行物体があったって話、知ってるか?」
「いや、なんですかそれ?」
「大学の近くで、UFOみたいなのが飛んでるって話題になってた。夏にも同じように浮いてるのがあったって言う人もいて、まあオカルト過ぎるとは思うが。面白くないか」
「その場所って、公衆電話があったりします?」
「お前が電話した場所? 知らないよそんなの」
「だったら、なんですか。クリスマスにUFOが現れて、誰か攫われたとか?」
「知らねぇって、そんなの」
「う、胡散臭い……」
事実、誰も彼もが胡散臭い噂話として扱っている。噂の源流も、もはやどこだか定かじゃない。
女性が攫われたのを見た、なんて証言もあったが、流石に嘘だろう。
「次、いつくらいに会えますかね」
「さあな。俺が卒業してからなら、いつでも」
「卒業、おめでとうございます。今のうちに言っておきますね」
大学四年間、いろんなことがあった。主に不運な出来事ばかり記憶に残っているが。しかしそれらを上回ることは、やはり彼女と出会い、デパートの屋上で一悶着あったことだ。
それは、時田や日野といった、関わった人との縁が生んだ出来事といえるかもしれない。
「ありがとうな」
俺は、なるべく感情が出ないように言った。
「なんですか、いきなり」
「俺も、今のうちに言っておこうと思って」
時田は照れたように鼻で笑った。いつも飄々としやがって。仕返しができたようで気分がいい。
「あ、白坂さんに代わって貰えますか」時田は気を取り直して言った。
「ああ」
「っていうか、やっぱりいつも一緒にいるじゃないですか。同棲ですか?」
「違ぇよ」
彼女にスマホを渡す、懐かしい声を聞き、嬉しそうに微笑んでいる。そういう顔を見ると、こっちまで嬉しくなるものだ。
脚の折れた椅子を片付ける。今までどおり、壊れた物を集めておくスペースに放っておいた。例の不運、かと思ったが単なる寿命だったのかもしれない。
俺の部屋にあるものは、まだまだ新しいものばかりのように感じていたが、そうでもない。大学生になり、一人暮らしに合わせて買ったもので、もう四年になる。寿命が来てもおかしくない。
四年。光陰矢の如し。
船からいきなり背中を蹴り飛ばされ、大海に放り出されるように、俺たちは社会に出なくてはいけない。
おい急に放り出すなよ、責任持って陸まで送り届けてくれよ。そう言いたくなるが、どうやらその船は最初から陸になど向かっていなかった。俺たちのような青二才を、次から次へと海に放り投げるのが仕事なのだ。それが、大学だ。
であれば、俺たちは泳ぎ続けるしかないのだろう。
「っていうか、時田と日野は、単位とか大丈夫なのか」
「なんとかなるでしょ、だってさ」
通話を終えた彼女が、俺の呟きに答えた。
「適当だな」
「実際なんとかなるんじゃない。大学側だって、さっさと卒業して貰いたいんだから。いつまでも在学されたら邪魔でしょうがないし」
「そういうもんか?」
「時田くんも、すーちゃんも気になるけど」
「すーちゃんって日野のこと呼んでるのか」
「わたしたちのやるべきことを、まずは終わらせようか」
そう言われると、途端に緊張してきた。数時間後の自分を想像する。それから現在の、あまりにも気取った服装が恥ずかしくなってきた。
「両親に挨拶に行く、か」
まさか、俺の人生においてこのイベントが訪れるなんて。少し前までの俺は、欠片ほども想像していなかったはずだ。
家を出て、二人して緊張した足取りで歩いて行く。すると虫が宙を舞っているのに気づく。蠅かアブあたりかと思って注目してみれば、天道虫だった。
「冬にもいるんだね」彼女はすぐスマホで検索する。「天道虫って普通の虫より寿命が短くて、生命のサイクルが激しいんだって。だから冬にもいる、らしいよ」
「こいつらも大変なんだな」
春夏秋冬、一年の間に必死で命を繋いでいるわけだ。
「天道虫、幸運を運ぶ虫」彼女は言う。
「らしいな」
「幸先良いんじゃない?」
「まさか」
「もしかして、君の今までの不運は、これから先の幸運の布石だったりして」
天道虫は俺の手に止まり、しばらく翅を休ませてから再び飛び立った。少しは俺に幸せを分けてくれただろうか。それとも、すでに幸運は訪れているぞ、と伝えてくれたのか。隣にいる彼女の眼を見て考える。
「幸運、か」
俺は躊躇いがちに、手を伸ばした。気恥ずかしさもあって、引っ込めようとも思ったが、それより先に手を掴まれ、力強く握りしめられた。
「幸せは、逃がしちゃダメだよ」
「……分かってる」
天道虫の赤い体が、青い空に舞い上がった。
やがて、春が来る。
完結しました。
ここまで読んでくださった皆様にも、幸運が訪れることをお祈りしています。




