恥の多い人生だけれど
翌日から、俺の生活に変化が訪れた。
とはいっても劇的なものではなく、たとえるなら、毎朝食パンと牛乳だけの朝食だったのが、ヨーグルトも追加した、みたいな変化だ。
また、白坂さんから電話が来た。今度は、普通の様子で、悲しみは一切見えなかった。初めて彼女のちゃんとした声を聞けた。
「昨日は、ごめんなさい」
彼女は最初に謝って、お詫びがしたいということと、元気づけてくれて嬉しかった、ということを告げてきた。
「また、電話してもいいですか?」
断る理由もなく、俺と白坂さんは頻繁に電話する仲になった。この現代で、いちいち電話をするというのも前時代的だが、お互い野暮なことは口にしなかった。
それから、色々な情報を共有した。
同じ大学で、彼女は教育学部であること、実は同じ歳であることなど、多くのことを知り合った。年齢が判明して、フランクな口調になった。
「元カレ見かけたよ。気分悪いから睨み付けてやった」
「そりゃいいね。唾も吐いてやれ」
と、いった具合だ。
あっちから電話をかけてくることもあったし、俺からすることもあった。内容は様々で、短いときも長いときもある。
俺は、時々、自分の失敗を語った。合コン時のような脚色は欠かさない。
「ついこの間、レポートの発表があったのに、資料を家に忘れたんだ。直前まで気付かなくて、教授には怒鳴られるし学生どもには笑われるしで、散々だ」
「でもさ、それって不運というよりは佐藤のうっかりじゃない?」
「痛いとこ突くなぁ。でもさ、なんでもかんでも不運のせいにしちゃえって、そういうのが染みついてるんだよな。ただでさえ不運なんだから、気を張っとけって話なんだけどさ」
「ただでさえ不運なんだから、気を張り続けることになっちゃう。大変だよ」
「まったくだね」
「そんなときはさ、家に誰かがいて、『資料、忘れてるよー!』って届けてくれるといいよね」
俺は膝を叩いた。その手があったか。
「家に誰かいたら、俺の不運もちょっとは薄れるかな?」
白坂さんはちょっと間を置いた。
「なんか、結局駄目な予感がする」
「なんだよー」がっくりとうなだれた。
白坂さんとは、大学の中で出会うこともあった。稀にだが、そういうときは親しげに一瞥したり、時間があれば立ち話をした。
教師みたいな、子どもの世話をする仕事に就きたいと話す白坂さんは、合コンとは打って変わって元気溌剌といった調子だ。むしろ、失恋でこの朗らかさが失われたのが信じられないくらいだ。
また、別の日のことだ。
「最近、やけに楽しそうですね」
図書館でパソコンを借りて、卒論の資料を探していると、時田と日野が揃って現われた。どこにだって二人でいるな、と言いたくなった。
「就活の調子はどうですか?」日野が茶化すように聞く。
「そこには触れるな。機嫌が悪くなるぞ、俺の」
「白坂さんと仲良くやってるんでしょ?」
単刀直入に時田が聞き出そうとする。別に隠すことではないし、頷いておく。
「お前は見てたんだよな。あの日、俺と白坂さんが電話番号を交換しているところを」
「白坂さん、先輩が完全に出来上がった後、泣き出しちゃって」
「泣き上戸って奴だったのか」どうりで。
「で、向井さんが慰めて、なんか流れで、じゃあ連絡先交換しますかって、女性陣と男性陣が。先輩は、白坂さんとだけ交換したんですよ。酔った勢いで」
謎は解消されたが、あまり聞きたくない真相だった。
合コンの話をした途端、わずかに日野の視線が動き、時田を射貫いた。眼光は鋭くて冷たい。真正面から受け止めようものなら冷や汗を垂らし、歯を鳴らして恐怖する自信がある。幸いと言うべきか、時田はそのことに気付いていない。
「チャンスじゃない?」
日野は視線を戻し、いつもの柔和な顔をしている。見事な切り替えだと感心する。しかし、なにがチャンス?
「その白坂さんって人、佐藤先輩と話してて楽しそうなんでしょ?」
「そんなの、俺に分かるわけがない」
日野が恋愛事を示唆しているのは流石に分かった。そのことは考えなかったわけではないが、前向きに捉えることはいささか難しい。
「ああ、楽しそうだ」時田はあっけらかんと言う。
「どうしてそんなことが言える」
「見てたら分かる。客観的に見ている方が、分かるものですよ」
「だけど」言葉に詰まってしまう。期待などしたくない。否定したいのだけれど、心中では「やっぱり、そうだよな?」と肯定したくなっている。
「恥の多い生涯を送って来ました。人間失格の有名な冒頭ですね」
「人間失格?」
「そんな太宰さんは、愛について多く語りました。そもそも、恋する人と共に死のうとしたんですから、彼の恋愛観は並外れたものでしょう」
「人間は恋と革命のために生れて来た」と主人公が確信したのは、確か『斜陽』だったか。作家に恋した主人公が、敗戦によって価値観が変わり、導き出された結論だった。それを書いた太宰治も、恋愛について思うところがあったのだろう。
「恥ばかりの酷い人生だったとしても、恋をしてはいけないなんて、そんな馬鹿げたことはあり得ませんよ。欲求のままに恋をしちゃいましょう」
「難しいことを言うな」
「なにも難しい事なんてあるもんですか。当たって砕けろ、って言うでしょ?」
日野が愉快そうに言った。どういうわけか、彼女は人差し指をこめかみに当てて、それから水をかき混ぜるみたいにくるくる回転させた。そうやってこめかみに指を置くのは、時田の癖だ。癖が感染している。
「元々砕けてるんだから、当たってもタダですね」
タダの意味が分からない。俺を挟むように二人はからかっている。男と女が挟んでいる場合はなぶると言わないのか。俺の脳はそんなことを気にしていた。
「やっちゃえ」
「やってしまえ」
二人はそう言って笑う。
「難しいことを言うなって……」
楽しんでいただければ幸いです。