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燃えるように熱い赤

 三年生の夏ともなると、就活のことも考えていかねばならない。現在に身の危険があろうがなかろうが、就職する未来はやってくる。

 わたしと時田くんはPCルームでインターンについて調べていた。夏期休講中に、少なくとも一つは参加しておくべき、というのが我々学生の共通認識だ。


 ある程度キリがよくなったところで、休憩がてら構内のカフェに足を運んだ。カフェで休んでいると、牧雄くんに悩まされていたことを思い出す。あのときも夏で、わたしが初めて、時田くんへの好意を自覚したのだった。



 わたしたちはアイスコーヒーを注文した。最近はいろいろと肩に力が入る毎日が続く。憩いの時間は貴重だった。


「なんか具合悪そうだけど大丈夫?」 


 疲れた表情をしていたのか、時田くんが気を遣う。


「就活のストレスかな。それに、暑いし」

 やっぱり、駅での件は言い辛かった。


「それとは別のって感じだけど」

「時田くんも、就活で悩んでるでしょ。それと同じだから」


 つい、強めの語気で突っぱねてしまった。少し、気まずい空気が立ち込めるようだった。


「まあ、辛いことがあったら、いつでも言ってよ。俺は彼氏なんだからさ」

「……えへへ。分かってる」


 彼に微笑み返すと、少しは安心してくれたようだった。それから、彼はお手洗いに向かった。

 彼がいなくなってから、わたしは自分が緊張していたことに気がつく。額に暑さとは別の汗をかいている。ハンカチで拭き、冷房の風を浴びて落ち着いた。


 涼んでいると店員からの呼び出しがあった。注文のアイスコーヒーだ。わたしは二人分を取りに行く。


「大丈夫ですか?」


 店員が、二人分を持とうとするわたしに訊ねる。


「どのことですか」

「え?」

「あはは。いや、なんでも」


 下らないことを言ってしまったと後悔する。


 将来の漠然とした不安のことですか?

 現在の曖昧な不安のことですか?


「冷たいですよ」


 忠告されたのにもかかわらず、冷たさで一瞬落としそうになり、2つの意味でひやっとした。席に戻ると同時に時田くんも帰ってきた。彼はお礼を言ってから、ぱっと別の方に視線を向けた。


「どうしたの」

「あ、いや」


 視線は出口を向いていた。カフェのドアは揺れていて、ちょうど今、誰か出て行った人がいるみたいだった。


「知り合いでもいた?」

「……ううん。気のせいだよ」

「そう?」


「ごめん。ハンカチ借りていい? 忘れちゃって」

「うわっ、持ってない男の人は減点だぞー?」

「はは。気をつけるよ」

「あ……ちょ、ちょっと待って」 


 テーブルの上へと伸ばされた手に、待ったをかけた。


「それ、汗拭いたやつ。バッグの中にあるから、そこから取って」


 ヒガシから貰ったお気に入りのバッグを指し示した。


「分かった。……ねえ」

「んー?」

「……実は、言っておかないといけないことがあって」


「え、なに」


 なんとなく不穏な空気を感じて、肌がぴりっとなる。

 別れようとか、言い出されたらどうしよう。そんなの、気が狂ってしまうかもしれない。……この考え方が重いのだろうか?


「えっと……」

「なんか、言い辛いこと……」


 我慢ができず先を促そうとした。

 その瞬間だった。



「いっ……て!」


 突然、時田くんの身体が跳ねた。悲鳴に近い大声を彼は発し、わたしはもちろん、店中の人々が驚いた。


「ど、どうしたの!?」


 時田くんの顔は真っ青だ。反対に、彼の右手は赤く染まっている。


 間違いなく、それは血だった。

 自分の腕から流れるものと、親しい人の手から流れる血では、同じ赤色でも恐ろしさが段違いだった。


「ゆ、指から……ち、血が」


「……日野、バッグの中になに入れてんの……?」

「え」


 急いでバッグの中を確認する。手に取ると、すぐに違和感を覚える。原因は瞭然だった。


 バッグの中に入っていたはずの筆記用具や、大事な財布がなくなっていた。代わりに、銀色に光る刃物が奥にぎっしりと詰まっていた。


「これ……わたしのバッグじゃない」


 慎重に刃物を掴んで手のひらに乗せる。剃刀の刃のようだった。迂闊に手を突っ込めば、たくさんの刃が、肌を切り裂くようになっている。


 大丈夫ですかと、店員や他の学生が寄ってきて、それぞれが血と剃刀を見て動揺する。異常な光景で、現実だとは信じられなかった。


 学生の一人が時田くんを医務室に連れて行く。わたしは茫然としながら、覚束ない足取りでなんとか追った。



 応急処置を済ませた。

 時田くんは連れて来てくれた学生に「もう大丈夫」と言って、わたしと二人になろうとした。

 学生は当然かもしれないが、わたしがなにか仕込んだのではと考えたらしく、疑心の籠もった目で見ていた。が、やがて出て行った。


「時田くん、あの」


「分かってる。日野がやったわけじゃない、だろ」

「……うん」


「え、まさか、知らないうちに俺に恨みを」

「そんなのないよ!」

「ごめんごめん。冗談」


 時田くんはなんとか笑顔を作るが、指の痛みを堪えているのが分かる。かなり深く切ってしまったようで、包帯は赤く滲んでいる。


「日野、落ち着いて」

「へ?」


 わたしよりも苦しそうだというのに、彼はわたしの心配をした。ふと、医務室にある姿見が目に入る。わたしは無傷なのに、貧血を起こしたみたいに白い顔をしていた。


 思考がまとまらなかった。


 駅で切られたのも不運じゃない。もしかして、自転車のパンクも意図的かもしれない。誰かがわたしを傷つけようとしている。しかも時田くんはそれに巻き込まれた。


「落ち着いて」


 時田くんは再びわたしを気遣う。


「でも」


「ちょっとビビったけど、たいしたことじゃないよ。爪が剥げたとか、骨が折れたとかじゃないし」

「こんなの……誰が?」

「俺のことを嫌いなやつでもいるのかな」


「待って、違うよ」


 時田くんを怪我させるために、こんなことをするはずがない。


「だって、時田くんがハンカチを忘れて、わたしがバッグの中から取ってって言ったから、怪我したんだよ。それがなかったら、財布を取るとかして、わたしが手を突っ込んだはず。怪我するはずだったのは、本来わたしなんだよ!」


「日野を剃刀で狙ったやつがいるって?」

「そう、駅でやったみたいに……」

「え、待て待て」


 あ、しまった。口が滑った。


「駅で? 誰かにやられたってこと?」


 誤魔化しきれず、渋々わたしは袖をまくる。赤く残った傷跡を見せると、彼は眉間に深い皺を作った。


「……やっぱり、さっきのは()()()だ」

「だ、誰?」


「カフェで、()()()に似てる後ろ姿だと思ったんだ。バッグも、そのときにすり替えられたんだよ。流石に違う、気のせいだって思い込もうとしてた。くそっ、もっと警戒するべきだった」


「ねえ、あいつって誰のこと!?」


「藤森だよ」


 わたしは束の間、絶句していた。


「で、でも、本当に彼女なの?」


「実は」彼は躊躇いがちに続けた。「春、俺は牧雄と会った」

「え! 牧雄くんと!?」


「まあ、()()()()あって。今はややこしくなるだけだから、内容は聞かないでほしい。牧雄と藤森は、つながってたんだ」

「つながってた……?」


「……あいつ、藤森の言いなりになってるんだよ。『ストーカー行為を知ってるぞ。バラされたくなかったら、言うとおりにしろ』って」

「脅したの!? ストーカーがストーカーを!?」


 犯罪者同士で、なにを厄介なことをしているんだ。


「牧雄の口から、藤森の名前が出て……俺は、あいつがなにかやると予想した。いつ来るのかと思っていたが、すでに……しかも俺じゃなくて、日野の方に来てたのか……」

「そんな……」

「黙ってて、ごめん」

「わ、わたしだって……」


 頭がふわふわとする。明確に、自分に敵意が向けられているのなんて、人生において初の体験だ。

 初めて感じる種類の恐怖に、体が震える。狂っている、と突き放そうとしても、その狂気はあっちから襲いかかってきているのだ。


「意味、分からないよ……」

「高校時代からそうだ。藤森という女は、理解できない人種なんだ」


 数年前から時田くんを追って、大学を特定し、わたしの住所も知った。人を傷つけるのもいとわない。

 剃刀の入ったバッグだってそうだ、中身だけ入れ替えるなんて短時間じゃ不可能だから、同じものを買ってすり替えたのだろう。


 この執着心は、まともな精神なら生まれようがない。



「俺、ここまで怒ってるの、初めてかもしれない」

「時田くん?」


 時田くんは声を震わして、息をゆっくり吐いた。少しだけ微笑を浮かべている。感情が誤作動を起こしたのだろうか。もしくは、怒りを抑えようと誤魔化しているのか。


「ホラー映画とかでもさ、霊が理不尽すぎると、ムカつくってことない?」

「霊って、たいてい理不尽なものじゃない?」


「恨みを持った原因を呪うのなら分かるけど、無差別に殺したりすると、なにを死人のくせに生意気な! って俺はなる」

「そ、そうなんだ」


「そういう感じ」


 そういう感じ、と言われても。


「日野は?」

「わたし……?」



 わたしは。



 藤森という人間は、得体が知れない。わたしに関わらないで、と願いたくなる。


 けれど、同時に「なんでわたしがこんな目に遭わなければならないんだ!?」と、怒りもこみ上げてくる。時田くんの言葉を借りるなら、理不尽だ。


「ムカつく……!」


 わたしは、はっきりと感情をぶちまけた。


「だよな」


「言葉にしたら……めちゃくちゃムカついてきた!」

「だよな!」


 引いた血の気が、急速に戻る。めらめらと燃えるように、頬が熱くなった。


「どうする?」


 時田くんが強い眼光を湛えて言った。そんなの、決まっている。わたしたちは、すでに一度、敵を撃退したのだ。


「作戦会議だ!」


 わたしたちは、絶対に負けない。




 余談だが、わたしのバッグは大学構内にある喫煙所にて、雑に捨て去られていた。それは火に油を注ぐ行為で、もはやわたしの怒髪は天を突き抜け、太陽系の外まで越えていった。



タグの「ミステリー」はここらへん由来です。

主軸ではないですが、一応つけてます。

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