赤く鋭い線
マンションの駐輪場に駐めていた自転車が、パンクしていて動かなくなっていた。使いづらい空気入れで必死に復活させようとしたが、しばらくしてからチューブが駄目になっていることに気がついた。
新しい夏が来た。蚊すら飛ばないほどの暑さで、長時間の外出は命に関わる。だというのに、まったく無意味に空気を入れていた。おかげでその日は一日中寝込んでしまった。
ここ一ヶ月ほど、謎の気味悪さが消えない。時田くんやヒガシには黙っていた。気のせいかもしれないのに、言えば迷惑をかけるだけだから。
喫茶店の店長は、わたしの様子を見て「なんか痩せた?」と気にかけてくれた。「太るよりはマシですよ」と軽口を叩く。店長がどう思ったのかは分からない。
家に帰ろうと駅に向かうと、会社員の帰宅ラッシュに巻き込まれてしまった。数年後の自分も、あの中の一人になるのか、と思うと目を逸らしたくなる。
ぶつからないように歩く。しかし右も左も人、人、人。という具合で、立ち止まったりしていられなかった。
早足の女性がすぐ横を通り抜けていく。わたしはぼんやりと「この人混みで早足は危ないんじゃないか」なんてことを考えていた。
すると、金具かなにかが引っかかったのか、右腕に鋭い痛みが走る。
ちらりと右腕を見やると、一筋の赤く細い線が引かれていた。赤色のボールペンでも飛び出していたのだと納得する。危ないじゃないか、子どもの目に刺さったらどうするつもりなんだ、と心の中で非難する。
たらりと、赤い液体が垂れた。
わたしはようやく、それがボールペンの線などではなく、血の赤であると、理解した。
脳と神経は不思議なもので、血と認識した途端、痛みが滲んできた。思わず呻いてしまう。深くはないが、だからといって浅くもないようだ。
現実感がないが、見れば見るほど傷は鋭く、まるで刃物で切ったようである。
いや、あり得ない。なぜなら、駅の構内で、刃物を出して歩いた人がいるってことになる。そんな人が、存在してていいわけがない。
血がどんどん垂れてきて、電車に乗るわけにもいかなくなり、駅員室で治療して貰うことにした。
「どうしてこんな傷が?」と訊ねられ、わたしはぶっきらぼうに「こっちが知りたいですよ」と答えた。
本当に「どうしてこんな傷が?」だ。
まさか、意図的にわたしを狙ったわけでもないだろうに。
早足でわたしの横を通った女性の姿が脳裏に浮かぶ。別になんでもないことだと思っていたから、顔は見ていない。
いやまさか。
狙ったわけでもないだろうに。
***
夏なのに長袖で過ごさねばならないことに腹が立ってくる。夏場に袖が長いと、見てるだけでイライラしてくる。しかし袖をまくれば切られた傷はまだまだ鮮明で、むき出しではいられなかった。
「時田には相談したの」と、ヒガシはわたし以上に怒りを表していた。「意図的だとしたら、ヤバいじゃん」
「心配させちゃうでしょ」
「馬鹿じゃないの?」
「馬鹿ではないつもりですけど……」
「いや、馬鹿だよ」
強く言われると、わたしは馬鹿かもしれない、という気になってくる。
「今、時田くんのいとこが悩んでるらしくて」
会ったことはないが、入江ちゃんという彼のいとこが、困っていると聞いた。「どうしようもない男子大学生」を探しているらしい。深く訊かないで、と言われたので、意味はまったく分かっていない。
「ふうん。だから?」とヒガシはそっけない。
「彼は彼なりに、身内の問題で忙しそうなの」
「あんたも身内と、言えなくもないんじゃない?」
「いやぁ、そんなそんな」
「照れてる場合じゃない」
「はい」
「なんだかんだで、時田と関わって二年くらい経つけど。そんくらいの相談で、あいつが迷惑するとは思えない。ぜんぶ手遅れになってから悲劇のヒロインぶったって遅いんだからね」
「う、うん。分かったよ」
わたしは首肯するが、そもそもなんて相談すればよいのか。駅で誰かに腕を切られて、と言っても、やっぱり不運かもしれないし、意図的だったとして、身に覚えが……。
「前に、時田が言ってた奴じゃないの」ヒガシは言う。
「前に、って」
「いや」
いや、とだけ言ってヒガシは言葉を濁した。
わたしは口にこそしなかったが、おそらくは彼女と同じ人物の名前が頭に浮かんでいた。しかし、確固たる根拠があるわけでもない。
「そうだ、鈴奈。駅が怖かったらさ、しばらく車で迎えに来てあげようか。お金持ちの令嬢みたいな気分になって」
「いや、い」反射的に断ろうとして、驚愕が遅れてやって来た。「え、ヒガシ車持ってんの? ってか、免許持ってたの!?」
ドヤ顔で免許証とキーホルダー付きの鍵を見せびらかしてきた。女だけど、イケメンに見えてしまった。何故、彼女には恋人ができないのだろうか。不思議でならない。
「鈴奈、今さ。なんで彼女には恋人がいないんだろうって、思わなかった?」
思った。まさに。悔しいけど。




