Yの覚悟 ──対面──
そして俺たちは三年生になる。
三年にもなれば、ゼミに入り、就活も始まる。大学で遊ぶ時間はもう終わりだぞ、と脅す教授も現れる。脅しに屈さず、相変わらず自堕落にモラトリアムを謳歌する学生も多い。
俺は気を引き締め直し、大学生活の折り返しを迎えようと考えていた。
結論を言うと、この一年はまるで、吹雪の雪山を下山するかのような年だった。
***
大学から自宅に戻ろうとしていたときのことだった。
「そ、そこの人!」と、誰かが道の反対から叫ぶのが見えた。また、それとは別に、人影が猛然と走ってくる。
俺はあと少しで帰れるのに、と渋面を作り、なんとか事態をやり過ごせないかと、半歩後ろに下がった。
だが、叫んでいるのは、俺の住むマンションの管理人だった。それが分かれば、流石に素通りはできなかった。
「そいつを捕まえてくれ!」
走ってくる人影をはっきりと視認する。その顔を見て、俺は声を漏らさずにはいられなかった。
なぜなら人影は紛れもなく、日野のストーカー、牧雄だったからだ。
──時田優悟 現在──
志村との通話を終えて、次に俺は、いとこに電話をかけようとした。しかし、繋がったのは留守電だ。確かに、公衆電話からの着信なんて怪しいし、無視するのが普通か。
受話器を置いたのと、記憶が蘇るのは同時だった。そういえばあの変人漫画家は、ちょうど今、旅行中じゃなかったか。
軽い調子で「俺、小学四年生まで京都に住んでたんだよ」と口走ったのが原因だ。合コンなどではウケる話題だから深く考えていなかったが、そのときの相手は出会いを求める女子大学生などではなく、好奇心旺盛で常にネタを探している漫画家だ。
「わたし、取材に行きたいです」と、彼女は静かに言った。
こうなったら、彼女を説得するのは難しい。京都の歴史や雰囲気は、創作では扱いやすいようで、一度は訪れてみたかったとのことだ。
俺は激しく後悔した。入江杏里は、漫画を描く才能と引き替えに、コミュニケーション能力と生活能力が欠如している。常識もない。
そのため、彼女を一人で旅行させるのはあまりにも不安だった。また、彼女の両親とも仲が悪く、同行なんて期待できないだろう。
どうしたものかと悩んでいたが、つい先々月、思いもよらない言葉が返ってきた。
「では、飯塚さんと一緒に行きます。なら問題ないですよね」
思っていたより懐かれている、と笑いそうになるのをなんとか堪えた。
二人を引き合わせたのは俺だ。予言者などではないから、この結果が見えていたわけではない。二人の変人を混ぜ合わせたら化学変化が起きるのではないか、と淡い期待を抱いただけだ。しかし、ここまで上手く噛み合うとは思わなかった。
飯塚のことだ。快く受け入れるなんてあり得ない。
俺は飯塚が暴れないようになだめる役で、二人の話し合いに参加した。
しかし、そこでまた、想定外の事態に驚くことになった。あの、無感情の杏里が、声を荒げて飯塚と喧嘩しているではないか。呆気にとられて、自分の役割なんて忘れて、成り行きを見守るしかなかった。
最終的に、飯塚が折れた。
飯塚とは、一年生の夏に出会った。講義の発表があり、そのときコンビを組んだのが奴だったのだ。二年生という早い段階でまともな大学生活を諦めた奴は、家に引きこもりがちになった。そのくせ妙に自信家で、言動に矛盾がある変人だった。
根拠のない大言壮語は鼻につくときもあるが、自分自身を励ます暗示のようなものにも聞こえた。だからというわけではないが、放っておけなくなった。
引きこもりが、京都まで年下の異性と旅行だなんて、とんでもない変化だ。
しかも、クリスマスに。とはいえ、異性間のアレコレに、期待できる二人ではないのだが。
自分勝手かつ、言い訳と現実逃避ばかりの男だが、なんだかんだでお人好しなところもあり、面白い友人だった。そして、気難しい漫画家の心を動かした。俺でも不可能だったことを成し遂げたのだ。彼は、間違いなく天才だ。
さて。
と時刻を確認すれば、もうすぐ予定の時間だ。
あと一人くらいなら、電話できるかもしれない。別に、しなくちゃいけないわけでもないのだが。静かに待つか、行動を起こすか。
どうしたものか?
***
この小道は一方通行で道幅もかなり狭い。車が来たらと思うと、少し怖い。車どころか、人の気配もしないから、あまり心配はしていないけれど。
静かすぎて、自分がどこに立っているかも曖昧になりそうだ。電話ボックスの灯りがなければ、暗すぎて奈落の底に落ちていく気分だったかもしれない。吐く息が白く、肌に染み入る空気が痛い。
ひたり、と足音がした。虫や鳥の音かと勘違いするほど、小さい音だ。足音は徐々に近づき、灯りの中に姿を現した。
そいつは相変わらず、ぞっとするような声で喋り出した。
「優悟くん」また、俺の名前を呼ぶ。「待った?」
夜の闇に同化する髪、地味な色調の服。なにか、違和感のあるトートバッグ。バッグさえ除けば、普通のファッションだ。
「ごめんね。本当はもっと早く来たかったんだけど」
藤森は薄ら笑いを浮かべて言った。
「我慢して、予定通りに来てくれて嬉しいよ」
「話があるんだよね? わたし、楽しみにしてたんだよ」
「一応聞くけど、なんでさ」
「だって、クリスマスイブだよ。期待しない方が、変じゃない?」
「……期待なんて」
「ねぇ?」
俺の発言は、有無を言わさない圧によって遮られた。
「この一年、日野にあんなことをしておいて、よく言えるよな」
藤森は一見、穏やかそうだが目はちっとも笑っていない。
「わたしとまた、一緒にいよ?」
俺は予言者じゃない。直観には自信があったりするが、肝心なときに勘は役に立たない。俺はこれから、どんな目に遭うのだろうか。
一寸先は闇だ。まさに、この寂しい小道と同じだ。おあつらえ向きすぎて、作戦の舞台にここを選んだことを、後悔し始めていた。
しかし、やるしかない。俺にまとわりつく悪霊を、日野を傷つけた敵を、許してはいけない。
この一年、春夏秋冬に起きた事件を思い返す。
さて。
俺たちの邪魔をする存在と、対決する時だ。




