夜中二時半の電話
タクシーから這い出る。一人暮らしの家に帰ると、三和土で膝から崩れ落ちた。かろうじて玄関の鍵を閉め、力尽きて倒れた。
やや酔いが醒めてきて、疲労と後悔が残った。
芋虫のように蠢きながら三和土からあがり、足だけで靴を脱いだ。廊下を這い、寝床に向かう。
そういえば、大学に入ったばかりの頃は、失敗があるたび二度とやらかさないように反省会を一人この家で開催したものだ。それが全く意味のないものだと気付いたのは早かった。
眠気は確かにあって瞼も重いのだけれど、頭だけがやけに活性化している。目を閉じてじっとしていたが、いつまでも夢の中には行けない。
ポケットから、大げさに感じる振動がきた。スマホが振動している。放置するが、振動は止まらない。電話だと気づき、ため息を吐く。舌打ちし、もたもたと取り出す。
「はぁい」
怠い様子を隠すつもりもない。時計を見上げると深夜の二時だった。こんな時間にかけてきて、平常通りの返事を貰えるとでも思ったのか。
ところで、誰からの電話だ?
最初、なにが聞こえているのか分からなかった。人の声なのか、動物の声じゃないか、と耳を澄ます。そもそも、生物じゃないかも。
「え?」
やがて鼓膜が正常性を取り戻し、同時に眠気も覚めてくる。スピーカーから響く音の正体が、だんだんと明らかになってきた。
「うわあああ……」
「え? なに?」
「うわああああ……!」
泣き声だ。喉から絞り出すような声で、相手は叫んでいる。それが涙声だと気付くのは困難だ。獣の咆哮かと思った。
「ちょっと、落ち着けって。なに、間違い電話か?」
喧しい泣き声から耳を遠ざけるついでに、画面に表示された相手の名前を確認する。もはやこの声は騒音だ。
『白坂さん』
画面を二度見した。白坂さん、間違いなくそう表示してある。
俺の記憶にある『白坂さん』は、今日出会ったあの人しかいない。目の前で沈鬱な顔つきで、誰の会話にも反応を示さない、何故合コンに参加したのか皆目見当もつかない彼女。
「白坂さん? 何で?」俺の頭には疑問符が犇めく。
どうして彼女が俺に電話を、そもそもどうして電話番号を知っている? なんで泣いている?
「なあ、とりあえず泣き止めってば」
嗚咽が聞こえる。涙を止めようと努力しているのだろうか。とりあえず、こっちの言葉が聞こえているようで安心する。このまま朝まで、意味不明な号泣に付き合わなければならないのかと恐れていたところだ。
「大丈夫? アーユー、オーケー?」
彼女はしゃくり上げながら、途切れ途切れに言葉を発した。
「ご、ごめんなさい」
「なんで泣いてるの? とりあえず理由を聞かせてくれないか」
今までの不幸経験から、「お前が私をこんな悲しい気持ちにさせたんだ」と言われる覚悟もしていた。「お前に責任をとって貰うからな」とか。
「ごめんなさい」
「謝るのはいいから、理由を」
スピーカーの向こうで口ごもるのが分かる。どうやら言いたくないらしい。ならば、とアプローチを変えていく。
「じゃあ、なんで俺に電話を? そもそも、どうして電話番号を知ってたの?」
「えっ」
と、彼女は驚きの声を出した。「交換したじゃないですか。覚えていないんですか?」
「えっ」
今度は俺が驚く番だった。彼女と俺が、電話番号を交換した、あの合コンで?
記憶にないと言いかけてからもしかして、と思い当たった。酩酊状態に陥り前後不覚になって、勢いに任せて交換を申し出たのかもしれない。
「私もそのとき、酔っ払っちゃっていて覚えていないんですけど。そういう流れだったんじゃないですか?」
ああそうだった、交換したよ、と誤魔化した。確かに彼女はちびちびとだが、アルコールを呷っていた。
「私、佐藤さんの話を聞いてたんです」
「ああ、あれ」
「はい。『俺は百万回死んだ』っていうアレです。そのときは、ああそう、としか思えなかったんですけど」
「その反応は割と正しい」
「精神的に、って話でしたよね。私も、そうなったから……」
再び白坂さんはしゃくり上げる。鼻水をすすり、我慢しようとして抑えきれない呻きの音が届く。ティッシュを取り、離れたところで鼻をかむ音がした。
「そうなったから、ってのは」
「私、アレです。フラれたんです。彼氏に、先週」
「ああ」乾いた声が、つい出てしまう。「そうですか」
もう一度時計を見る。深夜二時、そろそろ二時半だ。こんな時間帯に電話が来て、なにかと思えば泣きじゃくる女性。理由は、彼氏にフラれた。
切るか、と思い、適当な別れの台詞を考える。励ましの言葉は後腐れないように選ばないといけないな。
「死にたいんですよ」
弱々しい声が言った。ふと、こころの相談所に来る電話の相手は、こういうことを言うのかなと想像する。悲痛さと、切羽詰まった感覚が伝わってきた。死にたい、重い言葉だ。
「経験がないから共感はできないが、死にたくなるほど辛いらしいな。よく聞くよ、そういうの」
自分とは無縁の問題で、どうでもいいと一蹴してしまいそうでもあった。初対面の相手に相談すべきことじゃないだろと突っぱねたくもある。ただ、無碍にすることもできない。
どれくらい長く付き合ってたんだ、と訊ねる。三年、と答えが返ってくる。三年あれば、中学生は高校生になり、高校生は大学生になる。軽い年月じゃない。
「私が、私が悪いんです。馬鹿だったんです」
一通り聞かされて、俺は辟易する。彼氏に重いと言われた。束縛されるのが嫌だし、どうせ頼んでも改善してくれそうにないから、別れよう。そう言われて、三年間など最初から存在しなかったように別れた。
男女の関係というものは、不可思議だ。異常に満ちている。けれど、恋とはそういうものなのだろう。経験はないけど。
「彼が他の女の子と遊んでるのも、見たことあって」
「酷い話で、酷い男だ」調子を合わせる。
ガラス張りの細い道を歩いている気分だ。踏み外さないように慎重に、彼女の感情を踏み壊さないようにしている。
唐突に思い立ち、空気を変えるために話をすることにした。
「彼氏のことを恨んでいるのか?」
「は、はい。もう本当に嫌いです」
じゃあ丁度いい、と俺は話し始める。
「異性の後輩から聞いた話だが、彼氏が浮気したらどうするんだって訊ねてみたんだ。そいつは彼は絶対にそんなことをしませんって言ったんだけど。ほら、絶対なんか、あり得ないだろ。特に、恋愛事に関しては」
「そうですね。三年間の交際が消滅することだってありますから」
「もし浮気したらだよ、って仮定した。そうしたら、彼女はなんて答えたと思う? まず絶対にあり得ませんし、信頼してます、ってけなげに答えたんだがな。それからだよ。当ててみて。なんて答えたか」
「ええ?」困惑したような声がスピーカーを通す。「許しちゃいます、とか?」
「徹底的に問いただして謝らせて、それから嬲り殺します」
「へ?」
「って、言ったんだ」
思い出し笑いをつい溢してしまう。まさか、あの温厚そうな日野が、そんなことを言うだなんて夢にも思わなかった。時田もきっと想像していない。
異性の後輩とは日野のことだ。日野の顔は真剣その物で、冗談を言っているふうではなかった。
「おそろしいよな。浮気したら一発でアウト。ちなみに、グーパンチの構えしてたよ。あいつは、きっと素手で殺すつもりなんだ」
「めっちゃ怖いじゃないですか」
「やってみたら?」
「私が?」
「そう、すでに他の女と付き合ってるかもしれないんだろ。なら徹底的に、ぼこっと」
ぼこっと、と言って指を鳴らす。
「そういえば、嬲るっていう漢字は、男二人に女一人が挟まれてる構図だよな」
突然なにを、彼女は疑問が混じった相づちをした。
「だけど、女二人が男一人を挟む構図もある。その場合も、嫐る、で同じ読み方、同じ意味だ。なぶるには、二つの漢字がある。あ、基本的には同じだけど、男が女を苦しめる時は男が挟む『嬲る』で、女が男を苦しめる時は女が挟む方らしい。後で調べてみるといい」
「志村さんみたいなことを言うんですね」
昔、時田からそういう豆知識を聞いたことがあった。思えば、彼は志村という友人からあの知識を聞いたのだろう。つまりこれは、志村の知識か。
「だから、なんですか?」
「要するに、だ。もう一人、女友達を用意する。向井さんとかいいんじゃないか。女が二人集まれば、男を嫐ることができる。徹底的に苦しめて、鬱憤を晴らせばいい」
「突飛なことを言うなぁ」
「そうだな。だが、突飛なくらいが丁度いい」
白坂さんはくすりと笑った。ほんの少しだけで、今までの涙が帳消しにとは思えないけれど、暗い気持ちは軽くなったかもしれない。閉じられていた心が、開かれたかも。
笑えるなら、まだ生きていけるはず。
これは、俺が百万回生きてきた中で培ってきたものだ。百万回死んだ人間は、一回死んだ人間を救うことができるかもしれない。俺はこのとき、そんなことを考えていた。
あんまり難しい漢字使うのもよくないとも思うけど、これ書いたの割と昔なので、そのへんの配慮が足りてないんですね。ルビで対応してます。