漫画のような話 結
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長女は鞄から鍵を取り出し、ドアの鍵穴に射し込む。そして鍵がかかっていないことに疑問を抱く。不用心だと訝しみつつ、ドアを開けた。
その家族が、強盗に脅されているとも知らず。
長女が帰宅したのは夕暮れ時で、母親が想定していた夜遅くとは、まったく違う時間帯だ。
母親は強盗に嘘を教えたのだろうか。いや違う。実際に、長女は夜遅くに帰ると告げていたし、また彼女自身もそのとおりに帰る予定だった。予定が狂ったのにも、理由がある。
「ホントに、なんなんだよ……」
長女は昼頃に起きた「ムカつく出来事」に腹を立てていた。腹を立てながらも、心に引っかかりがあった。普段なら、この程度のことは一笑に付して忘れられるはず。なのに忘れられないのは、何故だろう。
「お前らなんかが、邪魔をするな」
あの男の言った言葉が、いつまでも耳元で鳴っているかのようだ。
「邪魔って、意味分かんねーし」
愚痴りながら、ドアを開けた。
すると、彼女の目の前に、見知らぬ背中が現れた。
最初、来客なのか。だから鍵が開いているのか。と納得した。しかし、男の手に包丁が握られているのが見て取れると、思わず呼吸が止まった。
男も、手をかけようとしていたはずのドアノブが遠ざかり、それどころか開く音がするものだから、同じく呼吸が止まったことだろう。
若さだろうか? 反応が早かったのは、圧倒的に長女の方だった。咄嗟に一歩退き、距離を取った。
そしてそれは正解だ。男は半狂乱になって、包丁を振り向きざまに振り抜いた。刃は空を切る。
長女は激しく動揺する。
なにが起きている?
誰だこの男は、家族はどうした。
様々な心配や感情が渦巻いて、とても冷静とはいえない。
男が飛び出す。
その瞬間、彼女は我知らず、さっきの言葉を思い返した。
「お前らなんかが、邪魔をするな」
長女が予定よりも早く帰宅した理由は、駅前で会った男のせいだった。見知らぬ男だ。大学生くらい、つまり自分と同じ年齢くらいだと思った。面識はないし、いくら記憶を漁っても、やはり接点はないはずだ。
ただ、男が放った言葉の中に、知っている名前が出た。
「お前らみたいな凡人が、天才の……入江の邪魔をするな!」
入江?
高校時代にクラスメイトだった、入江杏里のことか。
つい最近、同じ駅前で見かけて、友だちと馬鹿にしていたが、あれを聞かれていたのか。
知らない変人に、邪魔をするなとか意味の分からないことを言われても、下らなくて、どうでもいいと思うだろう。実際、友人はゲラゲラ笑っていた。
長女は、後悔していることがあった。
中学時代から、彼女は看護師になりたいと夢見ていた。だが、その道に進むための教養も、また自らのやる気もさほどないと実感し、諦めていたのだ。
そんなときに、クラスメイトに漫画を描いているヤツがいる、と友だちの間で噂になった。
それが、入江杏里だ。
初めは友だちと一緒に馬鹿にしていた。漫画家なんて、普通の人間がなれるはずがない。夢を追いかけるなんてダサい、と。
しかし、どうやら違う、と彼女は認識を改めていた。入江は「普通の人間」ではない。偶然見かけた、ノートの落書きは単純に言い表せないほど上手かったし、いくら馬鹿にされてもやめようとしない。不気味さすら覚えた。
入江杏里は天才で、夢を本気で追いかけていた。対して自分は、凡人で、夢を諦めた。
そのことに気づいてからは、入江を恐ろしく思い始めた。まるで出る杭を打つみたいに、拒絶するようになったのだ。
あの男は、入江の兄かなにかだろうか。まさか恋人などではないだろう。なんにしても、入江のことをよく知っているようだ。
入江が天才で、自分が凡人だと? ああ、まさにそのとおり。正解だ。
言葉が心に深く刺さり、とても友だちと楽しく過ごす、なんてできるわけもない。友だちに断って、早めに帰ってきてしまったのだ。
その結果が、これだ。
強盗と思しき男は明らかに焦っている。強く足音を鳴らし、彼女に近づく。
長女はゆっくりと、「ここであたしの人生は終わる」と諦めかけた。同時に、あの言葉が何度もちらついた。
凡人。邪魔を、するな。
彼女は怒りを覚える。
冗談じゃない。勝手なことを言いやがって。
あたしは、諦めたくなんかない。
天才が怖かった。夢を追いかけて、破れるのが怖かった。恐怖を見透かして、見下されているみたいで、入江が嫌いだった。だから拒絶した。
だが、拒絶したままでは結局、自分自身を拒絶しているのと変わらない。
長女は怒声を上げた。
開いたままの鞄から、スプレー缶を取り出した。この日が、まるで夏のように暑かったことが功を奏したのかもしれない。それは制汗スプレーだった。
弟が読んでいた漫画の台詞を思い出す。普段は漫画など読まないが、あの漫画は、とても面白かった。誰が描いているのか知らないが、あの台詞は、魂がこもっていた。
「本当は世界の平和とか、誰かのためとか、そんなことのために闘いたくない」「俺はお前が嫌いだから闘うんだ」
スプレー缶を掲げ、心の中で叫んだ。
入江、あたしはお前が嫌いだ。空を飛んで、凡人を見下しているみたいで。
だけど、空に羽ばたくどころか、助走すらしない自分の方が、もっと嫌いだ。
嫌いだから、闘う。
スプレーが、強盗に襲いかかる。催涙スプレーなどではないから、強い効果はない。また、噴射口が狭くもないため、放射状に広がるはずだ。
だが、彼女の怒りに応えた奇跡なのか、強盗の目に、それは真っ直ぐに命中した。
強盗は突然の反撃と目の痛みに酷く動揺し、ナイフを壁にぶつけ、取り落としてしまった。長女は、ドラマで見た記憶を頼りに、そのナイフを遠くへ蹴り飛ばす。
強盗は涙を流している。
自分も、なぜか涙を流していることに気がついた。
恐怖か、怒りか。分からない。まるで、感情が爆発してしまったみたいだ。
中身が飛び出るのもいとわず、彼女は鞄を大きく振りかぶった。
野球選手が渾身のフルスイングをするように。鞄で、強盗の頬をぶん殴った。
吹き飛ばされた強盗は、開いたままのドアに後頭部をぶつけ、気絶してしまった。
それを見下ろし、息を切らす長女。物音を聞きつけたのか、住民が様子を見に来る。やがて誰かが通報し、警察がやってくるだろう。
彼女の家から、母親と弟の声が聞こえた。長女は安堵して、膝から崩れ落ちた。
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後に、彼女は看護学校に通い出す。
それから必死に勉強して、やがて看護師になり、病院で働き出す。要領が良くない彼女は悪戦苦闘し、先輩に叱られる毎日を送る。それでも、過去の体験を思い出し、諦めないと固く誓う。
いつしか大きな病院に移り、重症患者の命を救う。患者とその家族の笑顔を見て、諦めなくて良かったと、涙を流した。
なんて、漫画のような話が現実となるかは、まだ誰も分からない。
しかし一人の少女が夢に向かい出したのは、紛れもない現実だ。
そこから先は、また別のお話。
3章終了。
次回、最終章です。




