彼らはきっと空を飛ぶ
入江に黙っていたことがある。
彼女が一時的に来なくなった時期、僕は短期のバイトをしていた。駅前の本屋、入江の漫画を見つけた場所で。
バイト募集の張り紙を見つけて、少しだけ興味が湧いた。ただ、そのときはバイトなんて面倒なことをするつもりはなかった。
しかし後日、大学に行って時田と会った。彼は、僕に入江を助けてやれ、なんて馬鹿げたことをのたまってから、本屋のバイトを持ちかけた。
「金、返すんだよな?」その一言は、有無を言わさぬ迫力があった。「俺の友だちが、そこでバイトやってるんだが、最近は多忙なんだと」
「その友だちって、志村とか言うやつ?」
「そうそう。文学部の、漢字オタク」
運動不足で、他人からの命令が嫌いな僕は非常に苦戦した。それなりに給料をはずんで貰ったが、二度とやる気は起きない。
バイト先で、志村は眠そうな顔で、唐突にメモ帳を持ち出して言った。
「『右』っていう漢字に、『ける』って送り仮名をつけるとなんて読むか知ってる?」
「……忙しいんだけど」
「正解は『たすける』だよ。『右ける』、そして、『左』でも、『左ける』って読むんだ。あり得ないって思わない?」
「知らないよ」
「『右ける』は神の助けみたいな意味、『左ける』は補佐するみたいな意味。そんな使い分けだよ。覚えておくと、面白い」
「あっそ」
こんな調子で、手を動かしながらうんちくを耳へ詰め込まれるのは、とてもストレスだった。加えて、志村は時折、妙なことを口走る。
「ミニミコちゃん、今日も可愛かったな……」
僕は、志村が「それってなんのこと?」と訊ねるのを待っている気がしたため、徹底して無視を決め込んだ。なんとなく、気味が悪かったし。
それよりも、気になったのは、時田が言った「入江を助けろ」というのは、『右ける』か『左ける』、どっちが相応しいのだろうということだ。
まあ別に。
どっちでも、別に構わないか。
時田に金を返し終えた。もう頼みを無理に受ける義理もなくなったわけだが、それでも入江を追い出さなかったのは、何故だろうか。
***
今日は、入江が漫画を編集部へ持っていく日だ。
そろそろ僕の家に帰ってくる。最高の漫画とはとても呼べない出来だが、やれることはやった。
どんな結果になるのか、いてもたってもいられず、外へ出る。
部屋の電気を消してドアを閉める。あれから、幻覚は姿を現さず、悪夢も見ていない。本当に、なんだったのだろう。
ちょうどそこへ、隣人の諸星が階段を昇ってきた。
「外、雨降ってる?」
厚く、黒い雲を見上げて、僕は尋ねる。
「今は降っていない」
「天気予報では夜からって言ってたけど」
「天気予報なら、信じていいんじゃないか。あれは高性能だ」
「そうかなぁ」
「この前、お前も誰かと喧嘩してただろ」
諸星が思い出したように言う。
「あ、あー」
あれか。そういえば深夜二時に、大声で喧嘩した。迷惑どころの話じゃない。
「ごめん」
「いや、普段は私たちの方がうるさいからな。なんてことはない。それより」
「なに?」
「地球人らしくていいと思うぞ。喧嘩」
「またそれかよ」
「感情の爆発」
「まあ、爆発したよ。目一杯」
彼女と仲良くやれよ。そう言い残して、僕は階段を降りていった。去り際に、今度海に行くことになったんだと言うのが、聞こえた。なんとなく、彼らはまた喧嘩するような気がした。
天気予報も、諸星の見立ても大外れして、アパートから少し歩いたところで雨が降ってきた。傘は持ってきていない。本降りにならないうちに帰ることにしよう。
そういえば先日、ずっと白紙だったレポートが完成した。意外にも、ちょっとの注意だけで受理されたのだった。拍子抜けもいいとこだ。こんなことなら、と思わずにはいられない。
さて、これからどうする?
いずれ世に羽ばたく天才も、多少の努力は必要なのかもしれない。
この世には、僕のような天才を、認めない輩が多すぎるから。認めさせるには、もう少し彼らに合わせる必要もあるのかも。面倒だが。
ふと前を見て、ぎくりとして、立ち止まる。そこにいたのは、黒いローブで全身を覆った、不気味な人影だった。大きな鎌でも持っていれば、『死神』と呼べるだろう。
後退ろうとして、うっかり濡れたマンホールで滑りかけた。
黒い影は、顔を上げた。
「あっ……入江?」
咄嗟に顔を逸らされた。だが、間違いなく入江だった。
よく見れば黒いローブだと思ったそれは雨合羽で、なんてことはなかった。
「お前、早いな。いやそれより」
「……なんですか」
「お前今、笑ってなかったか」
「なんのことだか」
「笑っただろ、僕が滑ったから!」
「気のせいですよ」
「絶対笑った! だから顔逸らしたんだろ!」
「気のせい! しつこいですよ!」
こいつ、無感情だった頃より、もっと憎たらしくなってやがる。前の方が、まだ平和だったりして。
「わたし、飯塚さんのせいで、短気になった気がします」
「あっそ。そりゃ成長だな」
「良かったですよ。飯塚さんに会えて」
皮肉と思って鼻を鳴らすが、入江はわずかに眉間に皺を寄せて、気恥ずかしそうにしていた。
「お前、今のは」
「それより、漫画の評価ですが」
「いやそれは後だ。それより、今のは本心じゃ……」
「いやこっちが先……」
雨に濡れるのも気にせず、僕たちは道ばたで言い合った。
この無神経で、馬鹿で、天才の漫画家はこれからどうなっていくのだろうか。傑作を生み出すのか。それともあっさり枯れて、落ちぶれるのか。受け入れられるのか拒絶されるのか。僕には予測できない。
でも、少なくとも僕は見守ってみたい。こんな変人を理解できる天才は、なかなかいるもんじゃないのだから。
「聞いてくださいよ、あのバカ担当……」
僕がそんな決意をしているとも知らず、入江は担当の悪口をつらつら吐いていた。
発言とは裏腹に、彼女の表情は柔らかかった。
次回、3章終わり。




