アンドロイドは死神の悪夢を見るか?
「うわっ」
日が落ち、暗くなって、家に帰ってきた僕を迎えたのは驚きの光景だった。
入江は土下座のような体勢でうずくまっていた。よく見れば、床に紙を置いて絵を描いていた。強い筆圧の振動が、床を伝っている。
「なんでまだ帰ってないんだ」
今までどおりだったら、この時間は僕一人だ。
「すみません」
姿勢がそのままだから土下座で謝罪しているように見えるが、絶対にそういう意図はない。休憩は取ったのだろうか。額に汗が浮かんで、紙に落ちないよう時々それを拭っている。
「終電までには帰ります」
「当たり前だ」
一瞬だけ腰を下ろし、また立つ。我が家で脱水症状になって倒れられても困る。買い置きしていたお茶をコップに注いで差し出した。
入江は喋る余裕もないのか、軽く頭を下げただけだ。ありがたく思っているなら、充分だ。
「なんか、手伝おうか?」と僕は言った。
「素人なのに」
「言っただろ。僕の目は肥えている、と。だからそれを読んで感想を言うくらいならできるぞ」
「なんでそんなこと」
「客観的な評価だって必要なはずだ」
思いついたままのことを口にしただけだが、我ながら本質を突いたことを言えた気がする。入江も一理あると感じたのか、絵を描く手を止めて、僕にスケッチブックを差し出した。
「じゃあ、出来ているところは読んでいいですよ」
「素直でよろしい」
「絶対に汚さないでくださいね」
そう念を押されると、途端に緊張が走るのだが。おそるおそる、最初のページを開く。
数コマ、目を通してすぐにはっとなる。
「この主人公、僕そのままじゃないか?」
「嫌なら変えますよ。一応、下書きなんで」
「嫌というか……」
「でも、名前とか見た目の細かい部分とか。そういう展開と関係ないところしか変えられません」
そう、名前なんか、僕のものそのままだ。
見た目だって、漫画らしくデフォルメされているが、直らない癖毛や細い目は、毎朝鏡で対面する僕と同じだ。
「嫌なら変えますって」
「待て待て、全部読むから……」
タイトル未定。
見た目や名前は僕だが、細部は異なる。
こいつは、堕落した日々を過ごしている。そのくせ、「自分は有能だ」と勘違いし、憎たらしい発言をしながら毎日をギリギリで生きている。
僕とは違う。
恋愛漫画、と聞いていたとおり、こいつは大学で偶然出会った女性に恋をする。もはや言うまでもないが、下書きの段階で流石の画力だ。美人に描かれている。
割とありがちなストーリー展開だが、ありがちとは言えない要素が、一個あった。
「この主人公さ」
「飯塚さんですね」
「違う、僕じゃない。……こいつ、どう考えてもこの後、恋は実らないよな?」
主人公は、まったくヒロインから見向きもされていない。明確に一方的な恋だ。それでも努力して振り向いて貰おうとする姿は、中々心に来るものがあるが、徒労に近い。
「そんな、だらけきった生活をしている人間が、ちょっとの努力で幸せになるわけないじゃないですか」
「いいのか? 漫画ならもう少し夢があっても」
「残念でした。ないですよ」
外で、バイクが騒音を発しながら走り去っていった。すっかり真っ暗で、街灯も少ないから、田舎の風景そのものって感じだ。
「まさか、僕に対する当てつけで、こんな展開にしたんじゃないだろうな?」
「馬鹿にしてますか? あなたなんかのために、展開を変えたりしませんよ。わたしは、これが最良だと思ったから、そうしたんです。恋が実ったら、ありきたりすぎるでしょ」
苦々しく聞いていたが、ふと、一つの単語が引っかかった。
「最良? ってなんだ。変な言い方だな」
僕は、入江の目がわずかに泳いだのを見逃さなかった。
「あと少しで下書きが終わるので、そうしたら帰ります。だから、静かにして」
話を逸らされた。
だが、追求するより先に、時間が気になった。このまま、異性と夜遅くまで過ごすというのは、なんか、いろいろと問題があるんじゃなかろうか。
「親とか、心配しないのか? 一人暮らしだっけ」
「実家住みですが」
「じゃあ連絡とか」
「心配なんかしませんよ」
「え」
「うちの親は、気にしません」
「親なのに」
「親でも、です」
出る杭は打たれると言うが、もしかしたら、親でも打つ側に回るのだろうか。
「まあ……勝手にすれば」
「はい、ありがとうございます」
少なくとも僕は、打つ側になるつもりはない。いずれ世に羽ばたく天才なのだから。
***
夢の中に重力はない。上下左右、どこが天井で床なのか、さっぱり分からない。
入江が走らせるペンの音が心地よかったのか、僕は我知らず眠っていた。夢の中は真っ暗で、夜の外に放り出されたのと変わらない。目を閉じているのか開けているのかすら、判然としない。
奴が現れた。輪郭が曖昧で、陽炎のように立っている。黒いローブを纏った「死神」だ。現実にまで現れたせいで多少は見慣れたらしく、僕はいくぶん冷静だった。僕は静かに訊ねる。
「僕に伝えたいことでもあるのか?」
僕の声は暗闇に吸い込まれていく。壁に向かって話している気分だった。
「本当に、不気味な奴……」
いや。
僕はそいつに手を伸ばしてみた。
幻だから。実体がないから。どうせ触れられないし、届かないと思い込んでいた。なにより遠ざけたかったから、試すことすらもしなかった。
「死神のような奴」「不気味な奴」と一蹴して、理解しようなんて微塵も思っていなかった。
手を伸ばしたらどうなるのだろう?
バグったゲームみたいに、最初から距離の概念なんてなかったかのように。僕は、あっさりと黒いローブに手をかけていた。冷たい感覚があった。夢だから、気のせいかも。
少しの力で、ローブははらりと退けられた。
「えっ?」
顔が見えて、僕は言葉を失う。
***
「ねえ、ちょっと」
「……んあ?」
「起きてくださいよ。うるさいし」
起き抜けに、入江の小言が鼓膜に響く。
「……ふつー、逆じゃないか? うるさいから寝てろとかはよく聞くが……」
「寝起き早々、ごちゃごちゃと」
刺々しい物言いは、目覚ましにちょうどいい気がする。
「うなされてましたよ。流石に気になります」
「夢を見てたんだよ」
「はあ」
「頼まれたって教えてやらないがな」
「頼まれたって訊ねません」
欠伸をしてから、起き上がろうとする。さて、朝の支度でも、などと体を動かすが、明らかにおかしい。朝じゃない。今は何時だ。まだ深夜じゃないか?
「おいおい」時計を急いで確認すると、深夜の二時だった。「おいおいおい!」
「なんですか」
「なんですか? じゃない!」
乾燥してがらがらの声で、僕は怒鳴った。
「なんでまだいるんだ? もうとっくに終電はないじゃないか!」
「描いてたら気がつかなくて。いつの間にか逃してました」
「お、お前なあ~……」
頭痛がするのは、寝起きのせいか、馬鹿げた現状のせいか。
目を擦り、さっきまで入江が座っていた場所に目をやる。ぐしゃっと丸められた紙や、消しカスが雑然と落ちていた。
「汚しまくってるな」
「すみません」
「どんだけ描いて……」
漫画家なら、下書きだろうと手を抜かず、時間をかけて取り組むものなのだろう。集中して、時間を忘れるのはどうかとも思うが。
問題は、時間がかかりすぎじゃないか、ということだ。
「なあ、もう一度読ませてくれないか」
「なにを」
「決まってるだろ。スケッチブック、ほら!」
迷惑かけている分際で、僕の命令を拒否できるわけないよな? 言外にそういった意図を込めて、僕は強く催促した。
入江は渋っている様子だったが、やがて僕に渡した。
破った跡がいくつかある。消しゴムを多用して、取り返しがつかないくらい汚くなっているページがある。さっき読んだ部分も、大きく修正が加えられている。
寝る前に読んだときは「こういうものなのか」と思った。僕は恋愛漫画のターゲット層じゃないだろうし、恋も愛もさっぱりだ。入江の絵は上手いし、コマ割りや台詞回しも、しっかり整っている。
でも、おかしい。
「なあ、これ……」
上手く言葉に出来ない違和感があった。どう伝えようとしても、正しくない気がした。
正しくない言葉を並べて伝わらないより、シンプルで浅い言葉を使うべきだ、と思った。
「面白くない」
「は?」
「……つまらないんだ」
そこで初めて、入江の表情が変わった。




