アンドロイドアンラック
ようやく残暑も過ぎ去って、空気が秋めいてきた。
入江は数日ぶりに家へ来た。久しぶり、と言っても反応は薄く、今までなにしてた、と訊ねても一蹴される。ああ、そういえばこんな感じだったな、と呆れる。
一つ変わったのは、僕を観察するのをやめて、一心不乱にペンを走らせていることだ。スケッチブックを切り裂くんじゃないかってくらいの勢いだ。
「なに描いてるんだ」
僕はもう方便を考えるのも面倒で、ストレートに訊ねた。
「ネーム」
「下書きみたいなやつ?」
「はい」
横からスケッチブックを覗き込んだ。もちろん見てもいいに決まっているよな、と心の中で言いながら。
大雑把にページを区切りコマのようにしている。使っているのも普通のシャーペンで、体勢も今まで通りの体育座り。なのに、しっかりと絵が描き上げられていく。
「あれ」僕は気付いた。「ということは、もう構想とかは出来上がってるのか?」
「そうですね」
「じゃあ取材終わり?」
「大体は」
「ようやく、僕の役割も終わったか。やれやれ」
「役割というほど、なにかしましたか? ああ、早く出て行って貰いたい、ですよね」
「別に……そう言われるとアレだが。まあ早いところ日常が戻ってきて欲しいとは思っているよ」
「下書きが終われば、出て行きますよ」
「ふうん……」
定規なしで綺麗な線を引いている。
「アナログ派なのか?」と訊ねると、入江は冷淡な顔と声色で返答する。
「それ、あなたに言って意味あるんですか」
「ただの雑談に意味を求めるなよ」
「たとえば、おじいちゃんに『パソコンってなにが出来るんだ』って話を振られて、あれこれ説明しても無駄ですよね。それと同じでしょ」
「お前と過ごした数日で、忍耐力が鍛えられたよ。生意気さに耐えられる」
いくらか限度はあるが、この程度なら慣れたものだ。
「……さっきから、隣の部屋の声がうるさくて、ただでさえ集中できないんですよ」
入江が指差した先は、もちろん隣室だ。この前の再来かのように、隣人とその客が喧嘩して、その声が薄い壁を突き破ってくる。
「この前は耐えてただろ」
「……耐えられない日だってあります」
「よくもまあ、そんなに喧嘩することがあるよなぁ」
「というわけで、せめてあなたは黙っていてくださいよ」
「ぐっ……」
いくらか限度はある。が、その限度を超えそうだ。
「あのな、漫画描いているときは『悪口モードに移行します』っていうのなら僕も諦めるが、お前がちゃんと人間なら、最低限の社交性を持って貰いたいもんだな。それとも、お前はマジのアンドロイドか?」
「『集中しているモードに移行している』つもりなんですけど、伝わっていませんか?」
「……あっそ」
この年下は、漫画に心血を注ぎすぎて、社会で生きていく要素をことごとく犠牲にしてしまったらしい。可哀想に。
こんなやつを「救う」とか「優しくする」とか、無理な話だ。
「じゃ、僕はしばらく出て行こうかな。天才漫画家様の邪魔にならないように」
身支度を手早く行い、外に出ていこうとした。
「勝手にしろ大バカ!」
と、玄関の向こうから怒声が飛び込んできた。
というか、酷いデジャヴを感じる。まただ。また、隣人だ。外の廊下で喧嘩が勃発している。
小学生の頃、やたら声が大きく、頻繁に癇癪を起こす教師がいた。同級生が名付けた渾名は、『怒り爆弾魔』。それを思い出す。怒り爆弾を、廊下で爆発させたやつがいる。
この前は、喧嘩の中に飛び込んでいくのが嫌で、結局引き返したんだったか。しかし、今回はその恐怖より、入江から離れたい気持ちの方が勝った。
歯を食いしばって、僕はドアを開ける。
「ん?」
階段の方向から、怒りに任せるような足音が聞こえてくる。怒り爆弾魔は、おそらく帰ったのだろう。
そして、目の前にいる男は、爆弾魔を刺激した張本人だ。
「……ああ、迷惑だったか。すまない」
「いや……別に」
別に、ということもないが、男があまりにも落ち着いていて、こっちが戸惑ってしまう。そういえば、隣室からの怒声は、ほぼ女声だった。内容から喧嘩だと推測していたが、一方的なものだったのだろうか。
隣室に住んでいるのは、確かに彼だ。もっとも会話などしたことはなく、ゴミ捨ての際などに挨拶をする程度で、彼に関することはほとんど知らない。
「喧嘩、多いな」
「喧嘩なのか? 常にあっちが怒るばかりだが」
「それは災難だな」
このまま立ち去るのも気まずく感じ、少し立ち話をする。
「災難だろうか。たぶん、いつも私が悪い」
喧嘩相手は恋人だと推測しているが、実際はどうなのだろうか。
「例えば、私はあいつに『今度、遊園地に遊びに行こう』と言ったんだ。人気らしいから」
「二人で?」
「あいつはそう思っていたらしい。が、私は違った」
「へ?」
「遊園地というのは、大人数で行くと楽しい場所らしいじゃないか。だから、友人と先輩を誘った。すると、怒られた。それだけなら、火でたとえると中火だったのだが、私が『どうして二人で行きたいならそう言わないんだ』と言い返したら、火が爆発を起こした」
「怒り爆弾が爆発を?」
「そう。だから、私が悪い」
「ああ……確かに、君が悪いかも……」
なんだかズレているやつだ、と思った。逆に、彼女の方に同情してしまう。
思い出した、彼の苗字は諸星だ。表札にある。
「料理を作ってくれと言われたから、カップラーメンを作った。すると蹴られた、なんてこともあったな」
「まあ。うん。喧嘩もほどほどにな」
僕は内心、こいつと話していると疲れそうだと察して、立ち去ろうとしていた。背を向けようと体半分ほど捻ったところで、彼は言う。
「喧嘩もいいものだと思うがな」
「……そうか? 喧嘩なんて、しないに越したことないだろ」
「宇宙人はあまり喧嘩をしないんだ」
「宇宙人?」なんで急に、宇宙人の話をするのか理解ができない。
「しない、らしいな」諸星は言い直した。
「らしいなのかよ」
「地球人は逆に、感情を爆発させる」
「ついさっき、怒りという感情が爆発したばかりだ」
「ほら、戦争なんか言ってしまえば、大規模な喧嘩じゃないか」
「そうかな」
「そういう喧嘩をしながら、地球人は進化してきたんだよ」
「戦争なんて、くだらないよ」
「地球人目線の意見だな」
「とにかく。喧嘩は人を成長させる、って言いたいのか?」
「かもしれない」
「なんじゃそりゃ」
「しかし、言うだろ。喧嘩するほど、なんとやら」
「喧嘩するほど仲が良い」
「それだ」
「あんたと、さっきの……彼女? は、喧嘩するほど仲が良いってやつなのか?」
「どうだろう? 私は結構良いと思っているのだが」
とてもそうは感じられない怒声なのだが。勝手に仲良いと思っているだけじゃないのか。なにしろ、彼はかなりズレているみたいだし。
「なあ」諸星は、僕の部屋を指差した。「誰か、他に住んでいるのか?」
「え、いや。客がいる」
「気配はするが、まったく声がしなくてな。変だと思ったんだ」
僕は、乾いた笑いを溢してしまう。
「……僕らは、あんたたちみたいに、喧嘩する関係性じゃないから」
「そうか」
「そうだよ」
「喧嘩するか?」
「はあ?」
諸星は急に、ボクサーの構えをとった。というより、たった一度だけ見たボクサーを、うろ覚えでモノマネしました、というような動きだった。
「え、なに? 僕と、あんたが?」
「喧嘩したら、仲が良くなるかもしれないだろ」
「僕とあんたが?」
ズレているというか、もはや外れている。ネジが。
「冗談だ」
「はああ?」
「よく言われるんだよな。お前の冗談は分かりづらい、と」
僕は、今後こいつと会ったら、挨拶すらしないことにしようと、心に誓った。




