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月に叢雲、花に風。大学生たちに幸運を  作者: 春山ルイ
その天才は空を飛ぶ
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君だけがいない世界

 夕飯の買い置きが無いことを思い出した。料理なんて高尚なことは出来ないから、駅を通り抜けた先のスーパーに向かい、安めの弁当を買うしかない。好物の唐揚げ弁当があればいいが。


 結局ほとんど変化のないレポートを放り出し、家を出ようとする。


「僕はこれから外に出るけど」

 ペンの動きを止め、入江は顔を上げた。


「では、わたしも帰ります」

 外は夕暮れだ。九月になって、徐々に日が落ちるのが早くなる。


「君、電車か?」

「はい」

「駅まで一緒か」

「無視して貰って構わないですけど」

「あっそ。じゃ、そうする」

「はい」



 部屋の電気を消して、外に出ようとする。ちらりと、暗くなった部屋の方を見ると、謎の影が揺らめいた。入江は僕より先に家を出ている。部屋には誰もいないはずだ。


 影が僕の方を向いた。慌てて玄関を閉じる。


 咄嗟だったが、はっきりと分かった。黒いローブを纏った、「死神」だ。強迫観念か、疲れからか。いや、正直、疲れるような生活をしている気はしないが。とにかく、幻覚が部屋の中にいた。


 僕は再びドアを開けて、慎重に中を覗き込んだ。真っ暗な部屋では、動くものは一切ない。思わず呼吸が荒くなる。


 そんな僕を見て、入江は心配……などするはずもなく。冷蔵庫から出したばかりの冷凍食品よりも冷えた視線で蔑んでいた。


 一瞬、病院に行くべきかと不安が過ぎった。馬鹿げている。


 しょうもない幻覚だ。僕の邪魔をするな。


 ***


 カツカツと、ローファーの足音が耳に残ったのは、もしかしたら何らかの予兆だったのかもしれない。


 駅への道中、僕は入江と一定の距離を開けて歩いていた。入江の歩幅は僕より小さいが、その分とても早足で、さっさと先に行った。並んで歩くなんて、頼まれても嫌だから、気が楽だ。


 しかしまあ、結果論だが、僕が先に行くべきだった。先に行けば、こんな事態から逃れられたのだから。


 聴こえていたローファーの音はぴたりと、僕の横で止まる。


「あれ、入江じゃん」

「懐かし」


 女性が二人、明らかに入江を見ていた。大学生くらいだろうか。身長の低い入江と違い、すらりと伸びた背は大人っぽさを感じさせる。僕は歩調を緩め、彼女らの会話に耳を澄ませた。


「相変わらず暗っ」

「ヤバ、全然変わってないじゃん」

「まだ漫画描いてんじゃない?」

「マジ?」


 好意的な声ではなかった。嫌な予感が、僕に鳥肌を立たせる。


「おーい」と、一人が入江に声をかけた。「こっち向けよ」


 僕の勘違いでなければ、嘲笑を含んだ声だった。


 入江は振り向かない。僕は気付いた。入江は足を速めている。二人の声に気づき、無視をしているのだ。


「無視かよ」「やっぱ高校の頃と変わってないね」「きっしょいなホント」


 わざとらしい大声で喋っている。胃がキリキリと痛み出す。僕が超能力者だったら、この場から遠くへテレポートしたい。そのくらいの気分だ。


 駅の改札から、降車した乗客たちがわらわらと出てきた。乗客の群れは通行人をかき分ける。波に攫われた砂のように、入江は姿を消した。


 僕は慌てて後を追う。大学生二人の方へ首を回すと、案の定というべきか、人を小馬鹿にしたような笑みが表情に張り付いていた。

 それからぱっと、表情を戻す。制汗スプレーを自らに噴きかけ、暑さを逃がしている。自分の喋ったことが悪いことではなく、日常的な物事の一つであるかのようだ。


 僕は必死に人ごみを押しのけ、入江を探した。入江がどこにいるか分からないため、ひたすら改札へ向かって歩を進めた。


 僕が人をかき分けているのか、人が僕を流しているのか、分からなくなってきたところで、改札にたどり着いた。そこに彼女の姿はなく、もう行った後かと諦めようとした。


 すると。


「なんでわたしより先にいるんですか」

「あ」 


 背後に入江がいた。


「見失ったから……」

「わたしを追いかけてたんですか?」

「ああ、いや……」


 通行人の邪魔になりかけ、横に逃れる。気まずい時間が流れた。僕は、彼女に声をかけてやるべきなのだろうか。励ましたり、茶化したり。少なくとも、無言は正解ではない。


「なにもないなら、帰りますけど」

「あ、うん」

「明日は自分の家で作業するので。あなたはどうぞ幸せに寝転んでいてください」

「そうか……」


 さっきのこと、気にしてないのか?


 そう訊ねようと開きかけた口は、僕の意思と裏腹に情けなく震え、閉じた。


 入江は若くして連載を勝ち取り、漫画のためなら、知らない男子大学生の家まで取材に来る度胸もある。漫画クレイジー、と呼びたくなる。


 その代償、というのは適切な表現じゃないかもしれないが、彼女はコミュニケーション能力と感情表現能力がぶっ壊れている。まさにエイリアンか、壊れかけのアンドロイドだ。


 しかし、疑問が生まれる。無感情のエイリアンが、漫画など描けるのか? むしろ、感情豊かでなければ、あれほどのストーリーを描けるとは思えない。



「飯塚さん。さっきの、聞いてました?」

「え?」

「聞いていましたよね。だから追いかけてきた」

「いや、僕は」


 僕の言葉を遮って、入江は言った。


「なんとも思ってません」


 嘘だ、と感じた。


「そういえばお前って、自分が漫画家だってことは」

「言ってませんよ。あなたや、時田さん以外には」

「それを公言すれば……」

「して、どうなるんですか。あの人らを見返せるとでも? そんな無駄なことはしません」

「えーっと……」


「あなたも、さっきの二人も。昔の同級生も。どうでもいいんです。他人のことなんか、わたしには一切関係ないですから」


 そう言い放ち、入江は僕に背を向けた。呼び止める暇もなく、改札を通り抜けてしまった。そして、エスカレーターを昇って、その姿が見えなくなるまで、一回も僕の方を振り向かなかった。改札を通った瞬間に、自分の世界からすべて消し去ったかのように。


 他人のことなんか、わたしには一切関係ないですから。


 その言葉に、僕は少しぞっとした。


 入江の言葉には嘘が含まれていると、僕は思った。もし彼女が嘘をついているとしたら?



 本当は、感情表現ができないのではなく、強い感情を抑え込んでいるだけだとしたら?

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