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月に叢雲、花に風。大学生たちに幸運を  作者: 春山ルイ
その天才は空を飛ぶ
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線は、怠惰を描く

 ***


 翌日、僕は玄関を開け、「正気とは思えない」と言う。


 目の前に、入江は当然だと言うように立っていた。

 一日経ってもやはり、アンドロイドのように無表情だ。


「一日だけでは取材になりませんし、昨日の飯塚さんは、ほとんど寝転んでいただけでした」

「じゃあ残念なお知らせだ。今日も僕は寝ているだけさ」



 僕の清らかな心の、ほんの少しねじ曲がった部分が昨日から疼いている。性格の悪い漫画家が僕に付きまとうというのなら、精一杯嫌がらせをしてやる。

 僕は一日中布団から出ないと決めた。彼女が諦めて出て行ってから、ようやく這い出すのだ。去って行く彼女の後ろ姿に、優しげな声をかけてやってもいい。


 昨日とは異なり、入江は部屋の隅に体育座りをした。まるで座敷童のようだが、この部屋にもたらされるのは厄だ。


 僕はさっそく布団に潜り、充電器に繋がれたスマホをいじる。この情報社会、ネットの海を眺めているだけで時間が過ぎていく。動かないことに慣れている僕と、思ったように取材ができない入江。どっちが先に音を上げるか、勝負といこうじゃないか。


 ***


 誤算があるとするなら、九月上旬は実質、夏である。布団を被り続けることは死に直結するのだ。忘れていたわけではないが、エアコンは不調が極まっており、冷房がほぼ機能していない。そのくせ電気代は無駄に食う。


 およそ一時間程度で体は悲鳴を上げる。


 頭まで被っているから分からないが、入江もずっと無言であり、音を上げる様子はちっともない。いつの間にか帰ったんじゃないかと不安になる。


 ホラー映画だったら殺される展開だな、と思いながら僕は布団から顔を出す。入江はしっかりとそこにいた。僕の目論見とは裏腹に、静かに絵を描いていた。スケッチブックが脚に立てかけられている。


 決して負けを認めたわけじゃない。が、ここは命を守るために、飲み物を取りに布団から這い出ることにした。冷蔵庫で冷やしていたお茶を飲む。自販機で買ったものを、そのまま入れているだけのお茶。


 コップに注ぎながら入江に目をやると、彼女はハンカチで汗を拭っているところだった。ちゃんと人間の機能があったのか、と半分本気で驚く。それから、水分補給をしてるのか、少し不安になった。


「水分、摂ったか?」

 と、僕は彼女の分のお茶をコップに注ぐ。


 入江は横目で僕を見ただけだった。


「この暑さ、死ぬぞ。エアコン壊れてるし」


 僕は彼女の側に、それとなくお茶を置いてやった。


「ありがとうございます。いただきます」


 お礼なぞ期待していなかったが、意外にも彼女は素直だった。案の定喉がかなり渇いていたらしく、すぐに飲み干した。



 なんだ、この変人は。

 今までに会った人間の、どの類型にも当てはまらない。



 入江の手から離れたスケッチブックには線画が一杯に描かれていた。


「見ていいか?」純粋な好奇心だった。

「いいですよ」


 入江はスケッチブックを、わざわざ一番最初に戻して僕に渡した。


 一面に描かれた線画を、顔の前に近づける。適当な感想を言って、返すつもりだった。


 しかし僕は、言葉を失う。それは漫画で言うところの「決めゴマ」のようで、一枚の紙を贅沢に使った、一人のキャラクターの絵だ。


 見たところ、使ったのはシャーペン一本。なのに、そうだと感じさせない、躍動感のある線と、迫力を出すため効果的に用いられた細かな陰影。美術に疎い僕にも伝わる凄まじさだった。


「凄い、凄いな!」


 語彙がないが、素直に賞賛する。ここで貶すのは流石に不可能だった。


 僕の賞賛を受けても、入江は淡々としている。「ありがとうございます」とだけ、無表情で言った。


 僕はさらにページをめくる。次々に絵が現れた。一枚一枚に物語性はなく、絵の練習に見えるが、まるで面白い漫画を読む手が止まらないときのように、僕はスケッチブックを読み進めた。正直に言えば、感動していた。


 だが、最後の一枚に手が止まる。


「絵柄が、違うな」

「絵柄はどんな人でも変わっていきますよ」


「いや、そうじゃなくて。この一枚だけ、なんだろう? 線が細い。他はなんていうか、少年漫画的って感じだけど。これだけは、違う」


「飯塚さん、素人なんですから。分からないなら適当なこと言わない方がいいですよ」

「馬鹿言え。確かに絵を描いたことはほとんどないが、読者としては、肥えた目をしている」


 そもそも、構図が妙だ。今までのはキャラクターが格好いいポーズをとっているのが多い。この絵のキャラは、だらりと力が抜けたかのように横になっている。迫力の欠片もなく、無気力だ。


 よく見れば、ページの片隅にメモ書きがあった。女子らしい字だ、と思ったのも一瞬で、書かれていた内容に唖然とする。


『グズ』『怠惰』『救いようがない』『どうしようもない』


「なんだこのメモ?」


 入江は僕を、無言で見つめてくる。


 いや、まさか。


「おい……この横になっているキャラ、もしかして僕か?」

「そうですね」


 そういえば、入江は僕に渡すとき、最初のページに戻した。さっきまで描いていた絵が、最後のページにあるとすれば、これなのか?


「じゃあこのメモも、僕についてか!」

「わたしが観察して感じたことを、忘れないようにメモしているだけです」

「グズとか怠惰とか? 冗談じゃないぞ、この可能性の塊に向かって、馬鹿にしすぎじゃないか?」

「見たままですけど」


「……君なぁ、どうしてそう生意気で非常識で、控えめに言って性格がゴミなんだ! 少なくとも『救いようがない』『どうしようもない』は、君も同じだ!」


「でしょうね。知っています」


 入江は僕からスケッチブックを奪い返し、僕から目を背けた。表情は変わらないが、その動きに、妙な『人間らしさ』覚えた。常にアンドロイドのように機械的だからか、それだけで強い違和感がある。


「自覚があるんなら、まだよかったよ」苛立ちを吐き出すように、息を吐いて、続ける。「で、僕を参考にして、どんな漫画を描こうとしてるんだ?」


 バトル漫画っぽい絵を描いていたが、僕にバトルは似合わない。


「恋愛漫画」

「……え」


 恋愛。恋と、愛。


 バトル漫画よりも、よっぽど僕に似合わない。


「そんなの、描けるのか?」


 入江の返事はなかった。

 そんなの描けるに決まっているじゃないか、という無言なのか。


 それとも……と、訊ねるのは、やめた。


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