ホワット・イズ・ヒトノキモチ?
殴られてもまったく痛くない。
痛くはないが、嫌な気分だ。殴られたからではなくて、殴られるようなことをしたから。
嵐の日のことを、走馬燈のように思い出していた。
あの日の帰り、少しでも雨脚が弱まることを期待して、建物の軒下で待っていた。すると、曾根崎が来た。彼も自分の自転車で追いかけてきたらしい。私と同じで、眼鏡をかごに入れていたのは可笑しかった。
「瀬川さんの部屋なのに、一人で待っているわけにはいかないだろうが」
怒鳴り散らしていた。彼の怒りはもっともだ。
「一応、さっき建物の中に行ったんだよ。瀬川さんと到着した時間の差は、そんなにないんだ」タオルで身体を拭きながら言う。
「じゃあ何故、外で待っていたんだ」
「お取り込み中だったからだよ。お前と、瀬川さん。やってたろ」
お取り込み中とは、やっていたとは、なんだ。疑問を抱いたが、どうせ「ズレてる」と馬鹿にされるだろうから、聞かなかった。
「そういえば半年くらい前だったか。私たちが着ぐるみの中に入って走ったのは」
「ああ、あれな。それが?」
去年の秋頃、曾根崎が友人に頼まれ、着ぐるみの中に入ることになった。学園祭のイベントのために必要なことだったらしいが、詳しくは聞いていない。我ながら行動の意義が分からない体験だった。
「あのときもお前は、今と同じようにびしょ濡れだったと思ってな」
「あのときは汗でな! 暑苦しいのに、走り回ったんだから汗だくに決まってる」
ヒヨコに阿波踊り祭りに誘ったことを伝えると、曾根崎は呆れていた。
「なんでまた、阿波踊り祭り? もっといいシチュエーションがあるだろ?」
「松尾が誘ってくれ、と頼んできたんだ」
「松尾?」
高柳から教えてもらったはずだろと伝えると、彼は記憶から松尾を見つけ出したらしく、ああー、と調子の外れた声を出した。かと思えば、急に喚きだした。
「なんで協力してんだよ!」
「無碍にするのも悪いかと思ってな」
「あのな」曾根崎は説教を始める。「あのな。松尾のためでもあるんだぞ。瀬川さんの本性は、秘密のままがあいつの幸せなんだ。あいつの気持ちを尊重するつもりなら、協力しないことが善意なんだ」
言い終わってから、周囲を見渡した。ヒヨコを探しているようだ。近くの自動販売機で飲み物を買ってきていると教えたら、安堵の息を吐いた。
「難しいな」私は言った。
「難しいことなんてねぇよ」
「難しいだろ。どうして人の感情というものは、ここまで複雑なんだ」
曾根崎は声を潜めて、うんざりとした声を出した。舌打ちまでされた。
「お前、さっき、本当にやったの? なんか不安になってきた」
「さっき?」
何故、誰も彼も少量の言葉で、言いたいことの全容が伝わると思っているのか。
自分の言葉が、すべて相手に伝わっているだなんて、期待しすぎだ。
「やってたろ、ってやつか?」
「誤魔化すなよな。廊下で、男の悲鳴が聞こえたから、びっくりして階段を昇ったんだ。角を曲がったら、お前と瀬川さんがいて、その、あれだ」
「ああ、あのとき」
「顔、近づけてただろ。つまり、やってたろ? ってこと」
顔、確かに近づけたな。あれには驚いた。突拍子のないことをしないでほしい。
「なんのことだ」
「お前なぁー」
「曾根崎、私は言っておくことがある」
「え、なに?」
「私は、ヒヨコと松尾が交際しようと、構わないんだ」
「ああ……は?」
「恋愛だとか、『アイラヴユー』だとか、理解できないしな」
「本当にこいつ、意味分かんねーな……」
上司は恋愛関係に発展させれば簡単と言っていたが、そんなわけはない。
曾根崎は勝手に混乱し、険のある目で、天を仰いでいる。
ヒヨコが飲み物を買って戻ってきたところで、この話は終わった。
「なんの話してたの?」
「さあ。曾根崎が暴走しているだけだ」と、誤魔化した。
「ふうん」
そのときのヒヨコの表情が、何故か網膜に張り付いたようだった。よく見る表情のようだったが、わずかに憂いを帯びている気がした。また、どこかで私を非難しているようでもあった。
なにも分からない。
私は人を愛することもできない。
この気持ちに変わりはないまま、阿波踊り祭りの日を迎えた。
そして、殴られた。
思えば私は、ヒヨコを欺いてばっかりだ。
***
ヒヨコがどこかへ消えた後、私と松尾は、衆人環視の中に取り残されていた。男女の下らない争いと思われていたかもしれない。
なんとか立ち上がり、ズボンについた砂埃を払う。
「だ、大丈夫っすか?」
「問題ない」
「口から、血、出てますけど」
「切ったのかもしれないな」
「女の人は気難しいって、言いますからね……」
「そうなのか?」
知らなかったんすか、とまるで世間の常識を知らない子どもを、呆れて叱る大人のような顔をされた。
それも地球の常識なのか。そんな常識なら、知らない方がよかった。
そうなると、つまり、私は地球に来てすぐに、最大の失敗を犯したということか。
思考が迷路のように入り組んで、未知の存在である地球人。その中でも気難しい女性。
そして、特に難しい、瀬川ヒヨコを選んでしまったこと。
血を拭い、駅の方向に向かう。松尾が追いかけてくる気配を感じ、振り返る。
「陽与子さん、探さないんすか」松尾は言う。
「探した方がいいか?」
私は立ち止まってから、尋ねる。
「いいに決まってますよ!」
「冗談だ」
私は、彼の眼を見つめる。
あまり人と見つめ合いたくはない。今は眼鏡をかけているとはいえ、完全に影響がないわけではない。ずっと見ていると、誰しもが気分を害する。だが、逸らすのも気が引けた。
「本当は俺が探したいっすけど、たぶん俺じゃないから」
「お前じゃない?」
「諸星さんが行くべきっす」
「そうか」
分からないが、曖昧に首肯した。
「なんとかしてあげてください」
松尾は頭を下げる。
どうしてお前が頭を下げるんだ。それもまた、私には分からない。
行進の演奏が、勢いを失っているように感じた。祭りも終わりに近づいているのだろうか。私たちを見ていた群衆も、とっくに興味が他に移ったらしく、人の流れが再開した。
ステージの上で踊っている一人の女性と、目が合った気がした。
踊る彼女たちは、もしかしたら家庭環境が複雑かもしれない。苦難の道をひたすら耐えて、最近になって幸福を掴んだ。だから、あんな楽しげに踊っているのかもしれない。
実際のところ私は、踊っている彼女らの内面を知らない。逆に、彼女らはここにいる私が宇宙人であることも、女王様に振り回されていることも、知るわけがない。
私は踊る女性たちや、車道で行進している人々に、「私はこんな理不尽な目に遭っているというのに、暢気に踊っている場合か」とやっかんでみた。
自分の気持ちを分かってほしかった。
「俺は、また今度、デートします」松尾は力強く宣言した。「諦めないっすから」と。
「そうか」
「あと俺、諸星さんのことも好きっすよ」
「男も好きになるのか?」
「や、そうじゃなくて」と、素早く頭を振っている。「面白いっすから」
「面白い、か」
「目とか、面白いっす。あ、悪い意味じゃなくて。じっと見ていると、不思議な気持ちになります」
「どうして、こんな奴らばっかりなんだ?」
「へ?」
「なんでもない」
私は自棄気味に頷いて、その場を後にする。駅に向かう。
「諸星さん?」
「ヒヨコを、なんとかするよ。しかし方法は考えるべきだ。探すのは得策じゃない」
夕陽が沈む。
人と人とは、完全に分かり合うことはできない。なのに、どうして分かって貰えると期待する?
一方で、どうして分かり合えないことを怖がるんだ。
「お前が、わたしのなにを知ってるんだ」
嫌な幻聴が、フラッシュバックした。
なるほどな。
気持ちを誰かに分かってもらえるのは、幸福なことなのか。




