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100万回死んだ男

 目を覚ますと、時田の顔が眼前にあった。こんな疲れた居酒屋にいても、様になってる容姿だと暢気(のんき)なことを考えていた。すると時田とは別の方向から、


「終電ですよ」

 と日野が言った。二人は微笑を浮かべている。


「それを言うなら『終点ですよ』じゃないのか。最近は聞かないけど」


 俺は未だに夢と(うつつ)の境から抜け出せないままだったが、なんとか声を絞り出した。


「俺たちがそろそろ終電になるんですよ。佐藤先輩はこの辺だからいいでしょうけど。俺らは電車に乗らないと帰れない」

「だから、終電ですよって」

「そうか」


 俺は体を軋ませながら起き上がった。おかしな夢を見た、と二人に話しながら、あの猫はなんだったんだと思索に耽った。


 代金は俺が払い、二人を駅まで見送った。春になったことを、思わず忘れるような寒い夜だった。中空を見上げ、寒気で酔いと眠気を覚まそうとする。三人で改札前まで歩きながら、明日に酔いが響かなければいいなと、後悔していた。


「じゃあ、私たちはこれにて」

 おっさん臭く、忍者のジェスチャーで、日野が別れの挨拶をする。二人は別々の路線の電車に乗るらしいから、改札を抜けた先でもう一度別れの挨拶をするのだろう。きっと、俺に対するものよりずっと親しげで、ずっと別れを惜しむような挨拶を。


「それじゃあ先輩、元気出して」

自棄(ヤケ)になって、そこら辺で暴れないでくださいよ?」

「そこは大丈夫だ。もうしない」


 少し前に、やらかしたことがある。あの時も、こうして三人で飲みに行き、駅に向かう道中で酩酊状態ゆえの奇行をしたため、警察の世話になった。すぐに帰して貰ったからよかったが、下手すれば停学ものだった。そう考えると、ぞっとする。



 別れ際、時田は思い出したように立ち止まった。


「いっそのこと、底まで落ちたらどうですか?」

「そこって、どこだ?」

「頂点の反対って意味の、底です」


 さっきの居酒屋での出来事が蘇った。


「こうなったら、いっそのこと底まで落ちていくのがいいですよ」

「開き直って、茹で上がっちゃってください」


 どこまでも酔い潰れろ、ということだろうか? そう訊ねると、彼は首を振った。


「恥を掻いてしまって嫌になるなら、もうこれ以上ないぞ、ってくらい恥を掻くんです。例えば、公衆の面前で服を脱いで裸になるとか、そのまま踊り出すとか」

「おい、そうなったら俺はもう生きていけないぞ」

「でも、それ以上の恥はないでしょ?」


 他人事だと思って、と言い返したくなるが、堪える。実行した様子を頭の中でシミュレーションする。駄目だ。とてもじゃないが不可能だ。


 目の前で時田は「どうですか?」というように微笑んでいる。玄関先で長々と、謎の神について語りだす胡散臭い宗教勧誘のようだ。悪気はなく、善意のようだからたちが悪い。


「確かに、それはいいですねぇ」と日野が同調する。いや、よくないのだ。


 二人の提案を一蹴し、俺は手を振って二人と別れる。にこやかに去る二人は、明日から、いや一分後から、新しい希望がやってくると信じているような輝きを発している。


 背を向けて帰路に就こうとするが、なんとなく振り向いて、二人の後ろ姿を見る。愛おしそうに手を繋ぐ様を見て、思わず笑いが零れてしまう。


「タコは結局、混ざれなかった」

 一人で呟き、歩き出す。


 すると、その独り言を聞いたOLらしき人が、通り過ぎる時に俺を横目で見て、「ぷっ」と吹き出した。どうやら俺はまた、恥を掻いたようだった。


 ***


 俺は生きている。心音は鳴り、血管は脈打ち、呼吸を続けている。百人に聞けば九十九人が俺のことを生きている人間と答えるだろう。一人くらいは、頭のおかしな奴がいて死んでいる、と答える可能性がある。


 しかし、精神的になら幾度となく死んでいる。

 持ち前の鈍感さと、死ぬことに対する臆病さで肉体的な死は先延ばしにしているが、やがてその時はやってくるかもしれない。


 明日、突然隕石が降ってくるかもしれない。それと同じだ。明日、俺が前触れなく世界に絶望し、飛び降りを選んでしまうかも。予兆はないが、そういう可能性もある。


 他人からの心ない言葉の凶刃に倒れること数百回、運命とも言えるような不運な羞恥が数千回、実体があると錯覚しそうな軽蔑の視線に蜂の巣にされること数万回。


 俺はとことん痴態を晒し、精神を痛めつけられ、尊厳を粉々にされた。


 通りすがりのOLに鼻で笑われるなんてのは、言ってみれば軽傷で、膝をすりむいたようなものだ。

 学校の構内でカラスの糞を頭の上に落とされたり、電車に乗った時にイヤフォンが他の乗客に引っかかり、抜けて大音量が車内に響き渡る。日常茶飯事だ。授業中に指名され、さっぱり分からない問題を解かされて無知を晒される、なんてこともあった。そんなことも軽傷に過ぎない。


 軽傷も積み重なれば致命傷となり、精神は死に至る。やがては俺の顔を覚える学生も現れ始め、くすくすと後ろ指さされることもあった。幼少の頃からずっと、こんな調子だ。

 積み重なった傷を癒やそうとするために、酒を呷ることが増えた。

 

 日常の中で良く聞くのが、

「マジで死んだんだけど」とか「死ぬしかねぇじゃんこれー」とか、なにか失敗したときに、同年代がよく発する言葉だ。大抵はどうでもいい失敗だ。

 彼らが言う「死ぬ」に当てはめるなら、俺は百万回死んでいる。


 ***


「二十年も死なない男がいました。百万回も死んで、百万回を生きたのです」

「情けない青年でした」


ゆる〜く読んでくだされば幸いです。

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