宇宙人の隠し事
予定が中止になるのは、よくあることだ。銀行に行った帰りに、コンビニに寄ろうとして忘れることも、よくある。それらと同じで、言おうと決めていた台詞が、遙か彼方に飛んでいってしまうことなど日常茶飯事だ。おそらくは。
『おや、陽与子さんじゃないですか。偶然ですねぇ、運命的です』
松尾はまるですれ違うように合流し、この台詞を開口一番、発言することに決めていた。だが、私を壁に押しつけ、不良のかつあげじみたことをしているヒヨコを発見して、出てきた台詞は。
「喧嘩は、やめておいた方が……」だった。
「喧嘩じゃ、ないけど」
ヒヨコも、かなり動揺しているようだ。必死に言葉を探している。被っていた偽りの仮面は、ひびが入っていた。
「ああ、偶然だな。松尾」私は咄嗟に手助けをする。「どうだ。せっかくだから、一緒に歩かないか」と、多少わざとらしくもなるが、最善手だと信じて、提案した。
「あ、そっすね……」
「別に、構わないけど」ヒヨコは、一目で分かるくらいに狼狽していた。
私は急いでヒヨコに耳打ちした。
「諦めてはいけない。まだ、バレたと決まったわけじゃない」
それから自然に、松尾の方に寄って、彼にも耳打ちをした。
「少し気が立っていてな。私が怒らせてしまったようだ」
女王様の下僕として二年を過ごしてきた。その成果が、如実に表われている。気遣いというのが、私は上手くなったはずだ。
しかしヒヨコは私の足を踏みつけた。
「松尾くんって、同じ学部の新入生だよね」
「あっ、そうっす」
「下の名前は浩大だっけ」
「はい。覚えててくれたんすね」
なんとも、微妙な空気だ。消えたと思っていた湿度の不快感が、舞い戻ってきた。
「浩大の浩って、どういう意味があるの?」
「はい? あー、なんでしたっけね」
松尾は思い出せない、といった素振りを見せているが、そもそも普通は知らないのではないか。彼女の気を引くためと、会話の空気を清浄にするために、彼は苦心している。
こっそり、とはいっても露骨なのだが、スマートフォンで検索している。
「あ、広い、とか、大きいって意味らしいっすよ!」
「じゃあ、浩大で、大きく大きくって意味なの?」
「ああー、そうみたいっすねぇ」
「宇宙みたいにか」私は思わず口を挟んでいた。
松尾はきょとんとしてたが、ヒヨコが反応した。
「宇宙、いいねぇ」
「宇宙すか、いいすかね?」
微妙に納得していないようだが、彼は勢いづいて喋り出した。
「陽与子さんは、陽を与える子、なんすか? めっちゃいい名前で、親のセンスも抜群ですね!」
親の話題が出て、私はヒヨコを横目で見た。特に変化はなく、嘘の笑顔を松尾に見せた。
「いいでしょ?」
「いいっすね」
でも、と言って私を指差した。
「こいつはヒヨコって呼ぶんだよね。やめろって言ってもやめないし」
「そうなんすか?」
「やめないんじゃない。言えないだけだ」
小声で反論するが、どちらの耳にも入っていないようだった。
屋台のエリアから抜け出て、再び車道までやって来た。
「でも、ヒヨコって呼ばれるのも、嫌いじゃないけどな」
「え?」
松尾は聞こえなかったらしく、私は意味を測りかねて、それぞれ聞き返した。私と松尾の声はぴったり重なった。
それはおかしい。最初に呼んだとき、彼女は確かに不快感を露わにしていたはずだ。あまり好きじゃない、といった意味のことを口にしていた。あの頃はまだ、彼女が私に対して仮面を被っていた。が、素を曝け出しても嫌がっている。要するに本音だ。今まで、そう認識していた。
しかし今、再び仮面を被り直して、嫌いじゃないと言った。
混乱してきた。
「そうだ、少し屋台で買いたいものがあったんだ。ちょっと、行ってくる」
私は松尾に目配せをし、立ち去ろうとする。
さりげない感じで、二人から離れようとした。当初の作戦はそういう手筈だったし、私がいても、仕方がない。
「なに、逃げようとしてるんだ」
しかし、そうはいかなかった。
「陽与子さん?」松尾が、彼女の隣でうろたえている。
声が、刺々しい。私は言葉に刺されたみたいに、しかめっ面をしてしまう。
「お前に、なにか隠し事をされるのは、ムカつくんだよ」
「隠し事か。さっきも言ったが、身に覚えが」
「この、作戦のことを言ってるんだよ」
「まさか」
「え、バレてる?」
松尾が唖然としている。私も同様だ。
「曾根崎も高柳も、揃ってそわそわしてるんだから。分かるに決まってる。盗み聞いたよ」
「分かっていたなら、どうして待ち合わせの場所で言ってくれなかったんだ? これは、無駄な時間じゃないのか」
ヒヨコの額に、青筋が浮かぶのが確認できた。
「違うって、思いたかったからな。黙っていた」
「そっちこそ、隠していたということではないか」
「うるせぇな。いつも理屈ばっかこねやがって」
ヒヨコの顔はよく見えない。わずかながら、身体を震わせているように見えた。怒りが、限界に達しているのかもしれない。
「すまなかった」観念して謝った。「駄目だな。やはり私は、お前のことを分かってやれそうにない」と、素直な気持ちで、続けた。
嵐の日の帰り際。濡れた紙が顔にへばりつくような、妙に嫌な記憶が蘇る。
「あの、俺も……」
松尾が謝ろうとしたときだった。
ヒヨコが一歩踏み出して、私に向かい、振りかぶった。
脚ではない。右の手を。
瞬間、なにか言われた気がしたが、それを聞き取る余裕はなかった。




