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お前がなにを知っている

 大学が、見えてきた。


 地表を滑走しているのではないかと錯覚する速度で、門を通り抜ける。幸いというべきか、嵐で外を出歩いている人間はいなかった。勢いをそのままに、目的の棟まで自転車で向かった。

 壁掛け時計が眼に入った。十二時五十分だった。


 濡れたまま棟内に入り、階段を駆け上がる。レポートを提出するためには、廊下の一角にあるレターボックスに投函しなくてはならない。期限を過ぎれば、レターボックスの口は閉じられる。


「おい」


 ドスの利いた声が、廊下中に反響した。無視して走ろうとする。


「待て」と、首筋を掴まれた。「なに走ってるんだ」

 私は親猫に首を咥えられて運ばれる、子猫のようになった。


「レポートを提出するんだ。(はな)してくれないか」


 男の顔に見覚えはなかったが、なんとなくイノシシに近いと感じた。ふと、ヒヨコが『イノシシ教授』、と言っていたのを思い出した。強面の長身で、それなりに威圧感がある。教授、という肩書に似合わない体躯だ。


「瀬川陽与子のレポートか?」


 まさかその名前が出てくるとは思わず、返答に(きゅう)した。


「お前、瀬川と一緒にいるところをよく見かけるぞ。あの偉ぶってる女とつるむやつはマークしてあるんだ」


「まるで賞金首だな」


「言っておくが、本人が提出しないと受理はできないぞ」

「馬鹿な」


 そんな決まりに意味はあるのか。尋ねる前に、男が口を開く。


「お前はよく知ってるだろ? あいつは生意気で、そのくせ能力が低い。口だけは達者な、『子ども大人』だ。このくらい厳しくないと、あいつが社会に出たとき困ることになる」


「彼女のためだと?」


「ああ、そうだ。それに、お前のためでもある。あんなやつと一緒にいて、疲れるだろう? どうせ、レポートの提出も、嵐の中だというのに、行けって命令されたんだろ」


 男は鼻の穴を膨らませている。ますますイノシシに近づいた。妙に得意げな表情が、癇に障る。


「お前が、わたしのなにを知っているんだ」宇宙を見上げていた彼女の横顔が蘇る。「と、あいつは言っていた」


「は?」


「まあ、私も分かっていないから、心配しないでくれ」


「瀬川が、なにかを成し遂げたとでもいうのか? 生意気な態度に見合うような功績を?」

「なにかを成すことが、それほど重要なのか」


 いつまでも私の首元を掴んでいる手が鬱陶しい。雑に払った。


「なんだと」

「あいつの能力は、まったく低くない」


 男の顔が、粘土で作られたお面のように歪む。学生から反論されたら気分は悪いだろう。

 言葉の端々から、生意気な学生を嫌っていることが伝わる。なら、私のことを憎むのも無理はない。私は、生意気らしいから。


 男に対して、さほど怒りは感じない。ただ、事実との食い違いは気になる。


「あなたから見たら生意気で、子どもっぽいだけと見えるのは、納得はできる。しかし口だけ達者というのは、違う。なぜなら、あいつは自分の小ささと宇宙の大きさに悩んでいたからだ。すごいと思わないか?」


「なに言ってるんだお前」


「宇宙と自分を比較できる人間が、地球にはどれくらいいるだろう。地球に限らず、宇宙全体で、どの程度いると思う?」


「宇宙とか、無駄に大きなスケールのものを持ち出して喋るやつは、大抵、馬鹿なんだよ」男はつばを飛ばす。


「言い訳じゃないのか?」

「はあ?」


「思ったんだが、地球人はどうも、自分より大きなものを怖がるようだ。国や政治、宗教のような神の概念、宇宙、人間性など。みんな、話すことを避けるんだよ。語っても、罪に問われるわけでもないのに。怖がっているんだ。自分の尺度や、常識が届かない規模のものに恐れているからか言い訳を作って、語らない。立ち向かわない」


 我ながら馬鹿らしい。なにを必死になっているんだ。


「ヒヨコは、それができる。すごい地球人だ」

「……やっぱり、あいつの友人は、生意気なやつだ」


 正解、と口走りそうになる。


 納得して退いてくれるかと思いきや、何故か私の胸ぐらを掴んで引き寄せた。これはなにかしらの罪に問われるのではないかと、訴えたい。


 ふいに、男と眼が合う。かなり、近い距離だ。


「うわっ」


 途端に、私は床に放られる。尻餅をつき、痛くはないが、呻き声が漏れる。


 顔を上げると、男はすっかり青ざめた表情で、私を見下ろしていた。


「な、なな……なんだお前……」歯をかたかた鳴らしている。


 眼鏡を自転車のかごに入れたままであることを、忘れていた。


 さっきまでの声とまったく異なる。威圧感がなくなり、今にも消えてしまいそうだ。じりじりと後ずさり、呼吸は浅い。泣き出しそうにも見える。


 そういえば、あのくらいの距離で、私の眼を見た人間はいなかった。


 雷鳴にも似た絶叫が、棟内に轟いた。

 男は転がるように逃げ出す。私は尻餅をついたまま、それを見送った。


 鞄を拾い上げ、ポストに向かう。ファイルに入れたことが功を奏した。レポートは少しも濡れていない。振り向くと、私の身体からしたたり落ちた雫が、廊下に小さな水たまりを作っていた。



「大間違いだ」


 声がした。今度はなんだ、と目をやった。

 廊下の角から息を切らして、ヒヨコが顔を出す。


「宇宙と比較できる人間は、案外、たくさんいる」



「ここまで来たのか?」

「一人で任せるのは、癪だから」


 必死に自転車を漕いだのだろうか、肩で息をして、脚はかすかに震えている。髪がぐしゃぐしゃに乱れて、元々の髪型とは別のものになっている。


「血、出てるじゃん」ヒヨコは指を差す。

「痛くはない」


「本気で言ってんの? さっきの、宇宙がどうとかって」

「当たり前だ。あの場面で、冗談や嘘をつく利点があるのか」


 彼女は大きく息を吐いた。


「とりあえず、ありがとう」

「ああ」私はレポートを彼女に手渡した。「本人じゃないと、受理されないそうだ」


「誰も見てないでしょ」苦々しげに言いながら、レターボックスに向かい、投函した。


「よかったな」

「よくないよ」


 彼女は私を睨み付けた。早足で迫り、私の顔を見つめる。さきほどの男が、悲鳴を上げた瞳をじっと見つめ、会話を続行した。


「あの人が、この授業の教授」

「そうじゃないかとは思っていた」


「なにをしたのかは知らないけど、根に持つよ。嫌がらせで、単位はどっちにしてもナシになる」

「嫌がらせの対象なら、私になるはずだ。ヒヨコは関係ない」

「そう簡単な話じゃないって」

「分からないだろ」


「それより、なにしたの、さっき」


 彼女の瞳が、目と鼻の先にあった。人間との距離の、最短距離を塗り替えられた。そして相変わらず、彼女は恐れない。


「怖くないのか」

「なにが」

「ヒヨコ、頼みがあるんだが」


 私の言葉は遮られた。


「ねえ。あんたは、一体なんなの?」

「諸星という者だが」

「そうじゃない」

「ほう?」


「あんたのことを、わたしはなにも知らない」


 未知のなにかと出会うことが面白いのなら、私は今、とても面白い体験をしていることになる。


 目の前にいる、瀬川ヒヨコは、不思議に満ちている。何故、私の眼を見て無事なのか。何故こんな私を知りたがるのか。何故こんな横暴な人間なのか。


「教える代わりに、条件がある」

「なに?」

「八月の頭にある、阿波踊り祭りに来てくれないか」


 図々しくあれ、とは、地球で学んだ大切なことである。


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