地球の歌
嵐の中を自転車で駆ける。水しぶきをあげて、車道を横断する。
眼鏡のレンズに雨粒が張り付いて、前が見えない。傘を差して走る中学生の集団とぶつかりそうになって、バランスを崩す。
雷がまた鳴った。
果たして、本当に私は無事なのか。実のところ、確信があるわけではない。風程度なら問題はないだろうが、雷は不安だ。空を見上げて、黒雲が覆っているのを確認した。雷に打たれた経験がないのだから、確信などあるはずがない。
視界を明瞭にするために、眼鏡を取って自転車のかごに投げ入れる。街中で取ったのは久しぶりだ。
車が、嵐から逃げるように走行し、はね飛ばした水がズボンと靴を濡らした。
ペダルを踏み込む。が、水で滑り、足が外れた。バランスを崩して、風も手伝い、生け垣に突っ込んだ。草木を折りながら、横倒しになる。
痛くはない。
痛くはないが、服は破れるし、枝が肌を切って血が流れ出す。血が失われても、命まで失われないのが私の身体だ。ただ、体内から血がすべて流れ出て、それでも身体を動かしている自分を想像すると、ぞっとする。
腕時計を忘れたのは失敗だ。今、何時だろうか。出てきたときは十二時を過ぎていた。締め切りの十三時まで、あとどれくらいだ。
私は倒れ込んだまま、悩む。
どこに焦る必要がある。レポートは提出するものだ、と確かに言った。それだけの理由で、必死にペダルを漕ぐ意味はあるのか。
身体を起こすのが億劫で、しばらく倒れていたかった。生け垣の中で、自転車を転がしたままで、顔に雨が降り落ちるのを受け止めていた。灰と黒が混じった空を仰ぎ、なんとなく歌を口ずさんだ。
***
私が今の仕事に就く前、要するに一般人だった頃。友人に「地球に旅行したことがあるんだ」と自慢していた男がいた。周囲は疑っていた。どうせ嘘だろ、と馬鹿にされていた。
集まった群衆が疑り深い性格ばかりだったというのもあるが、そいつ自身が、人望のない男というのもあった。私もその一人で、友人とはいえ疑っていた。
「証拠はないのかよ」群衆の一人がそいつに向かって吠えた。
「大したものはないけど」友人は困った様子だった。おどおどしたやつだった。訝しんでいた群衆はどんどん数を増し、囲んで証拠を求めた。遠巻きにそれを見ていた私は、焦れていた。
疑ってはいたものの、彼が証拠を提示して、群衆を黙らせることにも期待していたからだ。証拠もないのに、大きなことを言うなよ、とも思っていた。
他星に旅行できるのは、権力を持った者や、政府を黙らすことができる大金持ち。もしくは、現在の私みたいな仕事をしている者だけだ。その友人が、そのどれかに該当しているとは、誰も信じなかったのだ。
友人は、唐突に手を掲げて、周囲を一瞬だけ黙らせた。群衆がすぐに嘲笑を発し、静寂は破られた。笑い声が響く最中、彼は大声で言った。
「これ、地球で聴いた歌なんだ」
彼は録音機を取り出した。おもむろに再生ボタンを押す。
流れ出したのは、私たちの言語に変換された地球の歌だった。
何故、翻訳されたものを持ってきたのか。地球の言語をそのままに持って帰ってくればいいのに。自分の星の言語ならば、自作だってできる。信憑性が失われる。そのせいで、結局、大嘘だと馬鹿にされた。
時々、翻訳しきれなかった、地球特有の単語が入り交じった。けど、群衆はそれを気にも留めなかった。
どうして、友人はそこで諦めたのか。頑固に主張し続ければよかったのに。
あのときは信じなかった私だが、今では考えを改めている。なぜなら、地球に来てから、その歌を耳にしたからだ。
***
肩を落とすヒヨコを見て、友人の顔が浮かんだ。主張することを諦めて、嘘吐き呼ばわりを享受したあいつが、レポートを諦めた彼女と重なってしまった。
「ヒヨコ」声に出して、彼女の名を呼ぶ。やはり、可愛らしい名だと思う。次に「陽与子」と、ぎこちないイントネーションで呼んでみた。どうも、言い辛い。
私たちを暴力と罵倒で従わせ、ゼミの女王として君臨する。教授を差し置いて、人々の注目を集める彼女。私の眼を見て、「面白い」と評した不思議で、強い彼女。なのに、情けない過去の友人と重なったことが、許せなかった。
あんな弱い声を、どうして発してしまったのか。
こんな嵐程度で、諦めるのか。
身体を起こし、泥を払う。自転車を構え、一気に飛び乗った。
軋む音がする。
自転車の悲鳴も、遠くの雷鳴も喧しい。それでも、私は友人が聴かせてくれたあの歌を力強く口ずさんだ。




