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宇宙人、嵐に遭う

 嵐の中、私はペダルを漕ぐ。



 六月も下旬になり、梅雨雲が日本を覆いだす。

 じめじめとした湿気が勢いづき、洗濯物は乾かない、部屋の床はなんだか湿っぽくなるなど、利点はまったくない。風情があると言って、昔の俳人とやらは梅雨を喜んだのかもしれない。感性が豊かで、幸せそうだ。だが感性が豊かなだけでは、社会で生きていくことはできない。

 きっと。


 東アジアでしか梅雨は発生しないらしい。梅雨前線がどうとか、天気予報士が言っていた。東アジアは、六月に決まって貧乏くじを引かされている。他の時期には、別の大陸で不幸が訪れるのだろう。

 きっと。


 私も地球の梅雨にも慣れてきた。雨のしつこさも仕方ないと割り切れるようになってきた。



 しかし、嵐は聞いていない。


 嵐の日に、自転車で走行するなど、愚の骨頂ではないか。私はなにをしているのか。


 私自身が尋ねたいところだ。梅雨前線にでも問い合わせればいいのか。そんな時間もない。まず、子細を説明しなくてはならない。


 私たちの大学生活に、小さな事件が起きた。


   ***


 期末レポートというのは、八月に入ってから提出させる類の優しいものもあれば、六月の下旬に締め切りを設定する、せっかちなものもある。ヒヨコがとっている授業は、後者だった。


 私と曾根崎は、彼女のレポートの締め切り前日に呼び出され、手伝いを要求された。


 レポートの内容自体は容易いものだった。三人寄れば文殊の知恵、という言葉があるように、我々は協力してペンを走らせた。


 ヒヨコの下宿に集まり、資料を脇に積み上げ、分担作業で書き進めた。時代錯誤な手書きのレポートで、指の疲労が唯一の敵だった。痛みには鈍いくせに、疲れはしっかり感じる。厄介な身体だ。


 途中で雑談をする余裕すらあった。


「諸星は、毎回レポート書いてんの?」曾根崎がペンを回しながら尋ねる。

「書かなければ、単位は出ないだろう」

「そうじゃなくって、ズルはしないのかってこと」

「ズル?」


「他人のレポートを写すんだよ。俺はよくやったよ。三年になると、同じ授業を取る奴が減って、その手段が通用しなくなるんだけどな」

「それは意味がない。レポートとは、その授業の理解度を教授に示すものじゃないのか」


「真面目かよー。誰も見てねぇよ、学生のレポートなんてさ。面倒だろ」

「そうだったのか」


 私は、テレビ番組の裏には台本があるのだと知ったときと、同じくらいに驚いた。


「全員がそうだったら、わたしは単位落としてないっての」


 ヒヨコが口を挟んだ。割れた消しゴムの欠片を投げ、曾根崎にぶつける。


「え、なにがあったんですか」


 消しゴムの欠片の、さらに欠片が弾けて、曾根崎の眼鏡に丁度挟まった。


「適当な言葉で埋めただけのレポートが、見事に突き返されました」


「やり方が下手なんですよ。要領よく、サボるところ、真面目にやるところを……」


 言い終える前に、消しゴムが曾根崎の額に直撃した。


 時計の針は午前九時を回っていた。深夜の十一時に集合をかけられ、疲弊している。とはいえ、交代で仮眠を取ったので、そこまで辛くはない。この方法も、曾根崎が考案した。要領よくやれ、と言うだけはある。


 十三時までに、指定の場所へ投函すれば良い。ヒヨコの下宿から大学までは電車を使って、一駅だ。三十分もかからない。レポートも終わりに差し掛かり、障害はないと三人が信じていた。


 そこへ、嵐がやってきた。


 雨が降っている程度では、梅雨だしな、と気にしなかった。雨脚が強まり、風が吹き始めて、窓に打ち付ける雨粒が喧しくなってきたところでようやく、妙だと思い始めたのだ。


「なんか、天気悪くない?」


 ヒヨコは敏感に察知した。


「梅雨だし、まあ、天気は悪いでしょ」

「でも、風強いけど」

「気のせいですって」


 曾根崎は、徐々に自信を喪失していった。


「これは、嵐だな」


 私の不用意な一言で、場は混乱状態に陥った。


「マジ? マジで言ってんの?」と曾根崎。

「嵐だったら、電車も止まるんじゃないの? 大学、行ける?」とヒヨコ。

「今なら、まだ遅くはないだろうな」これは、私だ。


「そうは言っても、まだ結論の部分が終わってないよ」


 だったら終わらせるしかないと、レポートに全力を出した。しかし焦りというものは微細な影響があるもので、誤字をする、肝心な文を入れ忘れる、引用した論文がどれだか分からなくなる、などミスが多発した。


 雷鳴が轟いた。そのせいで、驚いた曾根崎がシャーペンを吹っ飛ばし、先端が私の喉に命中した。そこでまた、混乱が生じる。


 書き終わった頃、インターネットによって、電車が止まったことが判明した。雷が線路近くに落ちたらしい。

 六月に東アジアは貧乏くじを引き、東アジアの中で私たちが、特大の貧乏くじを引かされた。


「無理だ……」曾根崎の無意識の呟きが、小さな部屋にこだまする。


 ヒヨコは騒ぐこともなく、静かに肩を落とした。


「ヒヨコ、大丈夫か」

「大丈夫に見えるの?」充血した眼で睨まれる。「これは無理。諦める」


「ちょっと、待ってくださいよ」曾根崎が慌てて詰め寄る。「この嵐だったら、教授も許してくれるんじゃないですか?」


「前もって、どんな理由があっても遅れは認めないって言ってる。不測の事態に備えて、余裕を持って提出するべきだって。『イノシシ教授』がね」

「あ、そうですか……」


「前日までに完成させなかった、わたしが悪いからね。言い訳なんてできない。今更、一個くらい単位を落としたって変わらないし、諦めるって」


 彼女の無感情な言い方と、諦めへの抵抗の無さが、少し、鼻についた。得も言われぬ苛立ちが、私の心中で渦を巻く。


 地球に来てから、苛立ちを覚えたのは珍しい。外の嵐のように、感情が喧しく鳴り響いている。


「あっさり、諦めるんだな」私は言った。

「うるせぇ」という呟きと、舌打ちが聞こえた。雨の音に遮られているのもあって、かなり弱々しかった。

 彼女は、窓を伝う水滴を淋しそうに見つめる。


 曾根崎は、なんとか電車が動いていないかと調べ続けている。静寂を誤魔化すように、もごもごと呻く。ヒヨコは諦めたと言っているくせに、視線をレポートに突き刺していた。


 私には、それらが酷く惨憺たる光景に見えた。



 衝動的に鞄を持ち上げ、レポートをひったくるように手に持ち、クリアファイルにしまった。ヒヨコがぎょっとして腰を上げた。


「なにしてんの?」ほとんど怒声に近かった。

「届けに行く。自転車なら、間に合うんじゃないか」

「危ねえって」


 曾根崎が制したが、構わず玄関に向かう。


 たとえ風に吹き飛ばされようが、暴走したトラックに轢かれようが、私は死なない。嵐の中に自転車を走らせようと、危険なことなどないのだ。説明しても無意味だろうから、なにも言わないが。


「大丈夫だ。不運はそんなに連続したりしない」

「どういうこと」ヒヨコは訝る。


「レポートの締め切り当日に嵐が来るなんて不運、そうそうあるものじゃない。だから、自転車で走っていて雷が落ちるとか、そんな不運はもう来ないだろう、ということだ」


「世界には、どういう理屈だか知らないけど、とにかく不運を被る人ってのもいるらしいよ。わたしたちの大学でも、そんな人がいるとか、噂があるし」

「それは、私ではない」


「それに危険だとか危険じゃないとか、そういう話じゃない」

「じゃあなんだ」

「単位とかどうでもいいんだよ。もう留年が確定してんだから」


 彼女は詰め寄り、鞄をひったくる。もう片方の手で、私を突き飛ばした。痛くはない。

 痛くはないが、「痛いじゃないか」と嘘をついた。曾根崎がなにか言いたげに口を動かしていたが、無視した。


 諦めると口にした、彼女の弱々しさが、私の鼓膜で反響している。


「それこそ、そういう話じゃない」私はわずかに声を強めた。

「じゃあ、なに?」

「レポートとは、提出するものだ。違うのか?」


 私は強引に鞄を取り返した。


 外に出る。残された二人の叫びを後にして、足を速める。横殴りの雨が顔にかかる。立ち止まっている余裕はない。ここまで乗ってきた自転車を動かし、大学に向かう。


 馬鹿なことを、と声が聞こえた気がした。


 自分の呟きだと気づくのには、少し時間がかかった。


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