松尾という男
単位も卒業も、どうでもいい。
そう思っていたが、存外、大学の授業は興味深かった。哲学も倫理も、政治や宗教も、地球特有のもので新鮮だ。暇つぶしに丁度いい。
大教室に入り、前方の席に座る。座ってから気がついたが、どこかで見たような顔があった。会ったことはなくとも、写真で見たことがある。
回りくどいことは嫌いだ。単刀直入、尋ねることにした。
「ヒヨコが好きなのか」
彼の肩を叩く。
わっ、と驚き、臨戦態勢を取るかのように振り向いて、構えている。
「ヒヨコ?」
「違うのか? 瀬川ヒヨコのことが好きなのだと、高柳という男から聞いたのだが」
「ああ!」ようやく合点がいったようで「陽与子先輩のことか!」と、表情を明るくした。やたら声が大きく、身体を弾ませている。苦手な相手だ。
名前はなんだったか。先日、高柳から写真を見せられて、教えてもらった気がしたが、うろ覚えだ。
「あなたは誰っすか?」と聞かれ、「諸星と呼ばれている」と答えた。
「お前は誰だ」と聞き返す。素性も知らないくせに話しかけたのか、と怪しまれそうだが、些細なことだ。きっと。
「松尾っす。松尾浩大」
「確認するが、ヒヨコが好きなんだな?」
松尾は頬をわずかに赤くして、照れくさそうにする。へこへこと頭を下げて、まるで私に謝っているようでもある。
「や、まあ、そうっすね。一目惚れしちゃって」
「一目惚れか」
「あんまり追求しないでほしいっすね。恥ずかしいんで」
というかなんでバレたんすかね、とニヤついている。癪に障る表情だったが、なんとなく悪い人間ではないような気がする。恋慕で胸を焦がし、頬を紅潮させるやつは心根が優しい人間である。と、地球の教材に書かれていた。
「彼女のことを、どう思っている?」曾根崎にした質問と、似たような問いを彼にぶつけた。安易な気持ちで尋ねたことは、確かだ。
「それはっすねー」
と、語り出したが、勢いはさながら特急電車のようだ。長々と喋り倒し、無駄に豊富な語彙力で彼女の魅力について説いた。
ああいったところが可愛い、美しいだの、きっと私生活はこんなだ、という妄想を展開させた。それは間違っているぞ、なんて口を挟む隙も与えられなかった。おまけに早口であるものだから、最初の方からどんどん忘却していった。
「まだ続くのか」私は完全に打ちのめされていた。
「原稿用紙にでもまとめてみましょうか?」
「最初に出会ったのはいつだ?」
「今年の四月が、初対面っす」
私は驚愕するばかりであった。
「ところで、あなたはどうなんすか?」
彼は顔を近づけた。
「どうなんすか、とは?」
「陽与子先輩のことが好きだったり」
「していない」
即座にヒヨコの姿を思い描いた。松尾が惚れた彼女の笑顔は、とうに私の記憶から消えていた。いつも脳裏に浮かぶ彼女は、不機嫌そうに顔をしかめ、私の脚を蹴っている。
「よかった」彼は安堵している。
「なにが、よかった?」
「諸星先輩、協力してほしいんすけど」
「内容にもよるが」
嫌な予感がしないこともなかったが、純情な青年の頼みを無下にするのも悪い気がした。
「陽与子先輩とデートがしたいんで、偶然を装って、連れてきてくれないっすか?」
「別に、構わないが」
松尾の歓声を聞きながら私は、なにか取り返しのつかない失敗をしてしまったのではないか、と不安に襲われた。忘れていることがあるような。
しかし、ここまで真摯に彼女を想い、魅力について力説する男を無視してよいのだろうか。端的に言えば、私は感銘を受けたのだ。
ふと、身の毛もよだつ視線を感じ取った。私が怖々と振り向くと、大教室の最後方から曾根崎と高柳が、視線で私を射殺そうとしていた。彼らの口が開いて、魚のようにぱくぱく動く。
「馬鹿野郎」
そう言っているように見えた。




