茹でカニ、茹でエビ、茹でダコ
まさか、自分がここまで強いメンタルを持っているとは。
常人ならば、とっくにその生涯を、自らの手で終わらせることだろう。
ふと、そんなことに気がつき、我ながら驚いた。しかしそれは、強いメンタルを持っているというより、自死を選ぶ勇気と、現状を辛いと思える敏感さが備わっていなかった、というだけかもしれない。もしくは、知恵が足りていなかった。
***
アルコールの臭いがする。中年の馬鹿騒ぎが聞こえる。
俺は駅前に建つ、行き慣れた大衆酒場に来ていた。
光源や内装に気を遣い、少しでも小綺麗な印象を客に与えようとしている。だが、注意深く観察してみると、壁にはシミがあるし、天井には埃、梁の上には蜘蛛の巣が放置されている。なにより店員のくたびれた風貌が、この店の貧相さの象徴だ。服装だけ整えれば女性にモテると勘違いしてブランドで着飾る、冴えない男子大学生のようだな、と思った。
そして、それはまるで自分のことだな、とも。ブランド物に手を出そうにも金がないから、それよりも酷い。
俺は、この居酒屋にぴったりな客だ。
すでに顔は火照っていて、脳は錆ついたように鈍い。錆を取り払うために外に出て風に当たることもした。吐き気がする。裏腹に、酒が進む。
自分が酔っている、という感覚はあるけれど、だからどうした、と開き直る気持ちもある。
テーブルの反対側には一組の男女がいる。男の方は呆れた様子でこっちを見ているが、女の方は不安げな顔をしている。ゼミの後輩である、時田と日野だ。
「おい、どうした。俺の顔がどうかしたのか?」
俺は二人に声をかける。呂律が回っていなくて、ふわふわした喋り方になってしまう。思考はギリギリで働いている。
「どうもしてないですよ。佐藤先輩」と時田が、酔っ払いに絡まれたような面倒さを顔に出しながら答えた。
「いや、めっちゃどうかしてますよ。ほら、真っ赤」と日野が、手鏡をバッグから取り出して、俺の前に突き出した。見なくても、自分の顔の色くらい、分かる。
男の方、時田は俺のゼミの後輩だ。整った顔立ちをしていて、いわゆる女性に受ける容姿をしている。し、実際モテる。しかし嫌味に感じさせるところが全くない。傍から見れば、彼は男性として完璧だった。嫉妬心さえも湧かない。
その隣にいる日野も、同じゼミ所属の後輩なのだ。時田と比べると学内で会う機会は少ない。こういった場で顔を合わせることの方が多い。
彼女は小柄で、小動物的な容姿を持ち合わせている。きれいな二重で見つめられると、中々強烈な刺激が来る。今では就活間近ということで普通だが、少し前までは変わった髪色をしていた。入学当初は、青髪だったと聞くが、真偽は定かじゃない。
「ね? 茹でダコみたいに真っ赤」
「よく顔が赤い人を指して茹でダコみたい、と比喩するけれど、どうして茹でダコなんだろう? もっと適切な比喩表現があったと思うけど」
「茹だってる、っていうのがポイントなんだよ。頭から湯気出して、怒ってたりお酒で出来上がってたり。そういう人を指す表現としてぴったりなんだよ。きっと」
二人は、俺を置いて茹でダコについて語り出した。
「茹だっているのがポイント。茹でる赤い食べ物といえばタコ。なるほどな」
「でも、カニやエビも茹でると赤くなるよ。茹でカニ、茹でエビ。タコ以外にも赤いのはある」
「語感の問題じゃないのか? 茹でカニや茹でエビより、茹でダコの方が口に出してしっくりくる」そう言ってから時田は、「茹でカニ、茹でエビ、茹でダコ」と歌うように口ずさみだした。
「確かにそうかもしれない」と日野もつられるように「茹でカニ、茹でエビ、茹でダコ」と歌い出した。
俺は霞がかった頭で、二人の輪唱を情報として処理する。幻聴のように耳の内部から響く「茹でカニ、茹でエビ、茹でダコ」は、くるくる動くメリーゴーランドのように、頭の中で回転していた。
気がつけば、二人して俺を眺めている。その瞳は、いつの間にか手のかかる子どもを見つめるものに変わっていた。
子どもの頃に戻って、両親に子守歌を聴かされている気分だ。母親も父親も、そこまで良い両親じゃなかったけど。
「こうなったら、いっそのこと底まで落ちていくのが良いですよ」と時田がジョッキを差し出した。底にはまだ液体が残っている。「開き直って、茹で上がっちゃってください」
言われるがまま飲み干して、テーブルに伏せる。
これが彼らの優しさなのだと、俺は気がつく。ストレス発散のために無理に連れ出し、愚痴を聞かし、厄介に絡み続けた俺を、優しく慰めてくれる。
「とっとと寝かして、お前らだけで過ごそうって魂胆なんだろ?」
俺は懲りずに絡み続ける。女々しくも、彼らの優しさを確かめたかったのかもしれない。
時田は突っ伏している俺を見下ろしながら口角を上げる。「いつも過ごしてますから。こんくらいの時間は、なんとも思いません」
ああ、仲睦まじくてなによりです。俺は笑いながら、夢の中に入っていくのを感じた。そういう関係だったよなお前ら。じゃあ、後は若い二人だけで。
***
夢の中に入った、ということはすぐに察した。
目を開くと、真っ赤に染まったカニとエビが、手を繋ぎなから踊っていた。手を繋ぐ、といってもカニとエビにだからいまいち分かりにくいが、そこは夢だ。
両手を繋ぎ合わせ、輪になって踊る。中学生の林間学校で、女子と手を繋いでフォークダンスを踊ったことを思い出した。雨が降っていたから、室内で。
そういえば、あれが女子と手を繋いだ最後だったかも。
カニとエビのダンスは続いている。俺はその二匹を遠目から眺めている。すると、遠くから別の赤い物体が近寄ってくるのが見えた。なんだろう、と目を凝らしてみると、それはタコだった。茹で上がって、真っ赤に染まっている。
二匹に混ざりたいのか。仲良くやっているんだからやめておけよ、と思いつつも、まあ寂しいだろうから混ざったらいい、という寛厚な気持ちも湧いてくる。タコは懸命に走ってくる。タコが走る、というのもまた想像しづらいが、そこも夢だ。
しかし、タコは混ざれなかった。
あっというまに、颯爽と猫がやってきて、タコを咥えてしまったからだ。まさに突風のようだった。どこからともなくやってきて、風が屑紙を飛ばすみたいにタコを連れ去ってしまった。
唖然としていると、猫がこちらを振り向いた。
くすんだ黒色をした頭で、目つきは嫌に鋭い。なにか恨みのようなものを抱えて、蓄積した感情が、目の形を変えてしまったのかもしれない。
頭部が黒一色なのに、体は二色だ。しかも、黒と白のボーダー。人工的にすら感じる規則正しいボーダーの線は不思議としか言いようがない。
よく見れば、指の先は違う色だし後ろ脚は頭とは逆に白一色だ。尾はまた黒白のボーダーだけれど。
その猫のふてぶてしさと、せっかく輪に入ろうとしていたタコを咥えたことに対して、妙に怒りを覚える。猫の鋭い目をにらみ返すと、猫もまたにらみ返した。
そのにらみ合いがどれだけかかったのか知らないが、じっと対峙していた。
やがて猫が飽きたのかぷいっと顔を逸らした。口には、しっかりとタコを咥えたままだ。
尾を憂鬱そうに垂らしながら、退屈そうに歩いている。ゆらゆらと揺れながら歩くその様に、俺は不吉なものを感じていた。
俺は猫を追いかけてようとして、俺って夢の中で動けたんだ、と思いながらよたよた駆けだした。
猫はまだ歩いている。走り出す前に、捕まえなくちゃいけない。
絶対に追いつかないと。何故か、そうしないといけない気がした。
ふと視界の端に、カニとエビが動きを止めているのが見えた。どうしたのだ、と視線を向けると、すっかりダンスを止めてこっちを見つめている。はて一体どういうことかと考えていると、どちらも同時に口を開いた。
「終電ですよ」
突然、目に光が入ってきた。
定期的に投稿していきます。長くなるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。