女王様
下宿まで、夜道を歩く。行きには夕焼けで、赤く染まっていた街並みが、帰りにはまるで火の消えた暖炉のように暗くなっている。
歌を口ずさむ。母星の友人が、歌っていた歌だ。地球の歌だが、これを初めて聴いたときのことを思い出そうとすると、嫌な記憶も蘇る。しかし歌自体は気に入っている。
やがて、安アパートが姿を現わす。
まともなところは手続きが面倒くさい。そう言って横着して選んだのは失敗だった。おかげで風呂は壊れ、遠い銭湯まで遠出しなくてはならない。
アパートの前に人影が見える。目を凝らせば、知っている顔だった。
「よう、諸星」と、偽りの性を呼ばれる。
「なんの用だ?」
「スマホくらい持っておけよ。わざわざここまで来るのが面倒だっつの」
「固定電話ならあるが」
彼は曾根崎といって、一年時からの同輩だ。長方形フレームの眼鏡をかけ、髪は妙な形に刈り上げている。曰く、洒落のようだ。「お前もしっかりお洒落をしろよ」と言われる私は、必要最低限の衣服しか持っていない。
「ゼミの連絡だよ。一週間後、飲み会だってさ」
「急だな」
「女王様の気まぐれだ」曾根崎は自棄気味だ。
「なるほど」
私たちに拒否権がないと察するには充分だった。
地球言語を学ぶために、教材として利用した物語がいくつかある。その中に、「不思議の国のアリス」がある。そこに登場する、赤の女王が思い浮かんだ。
気まぐれで私たちを振り回すあいつは、アリスやトランプ兵に横暴な命令を下す、赤の女王と重なる。
あいつ、女王様こそが、私が狙いを定めてしまった女性だ。
「他には誰が来る?」わずかな希望を探すように、私は尋ねる。
「俺たちと、高柳先輩」
「後は?」
「以上」
「ああ……今から誰か誘えないか」
「無理だ。誰が行きたがる? 鬼だって首を横に振るだろうよ。いや、首を振る前に逃げ出すだろうな」
「教授は来ないのか? ゼミの飲み会なんだろう」
カマキリのような顔をした男だ。神経質そうに視線を彷徨わせ、いつもなにかに追われているみたいに早口で喋る。我がゼミの教授だ。あんな様子になった原因は女王様だ、という噂もあるが、流石に眉唾だ。
「子どもが悪い病気に罹ったらしい。おそらく行けないだろう、ってことで欠席さ」
「それは本当か?」
「お前、そのときいなかったっけ。本人の口から聞いたよ」
「そうじゃない。本当に子どもが病気なのか、と疑っているんだ」
「さあ?」曾根崎はそっけなく肩をすくめる。「流石に『子どもを無視しろ』とは言わないだろうし。もし嘘だったら、頭のいい口実だよ」
私の星では、子どもに危害を加えたりしても、大多数は罪悪感を抱かない。一方で地球の場合はそれが少数らしく、たいそう驚いた。同時に納得もした。幼い子どもが自由に駆け回り、涙ではなく笑顔を見せているのは気分がよい。
「で、ヒヨコの調子はどうだ?」
「ヒヨコ?」
曾根崎は眉間に皺を寄せた。阿呆面にも見える。
私は言い方を変えた。「瀬川のことだ。女王様だよ」
曾根崎は噴き出した。なにが可笑しいのか、と眺めていると、「イントネーションが変なんだよ」と指摘された。
「本人からも言われたな」私が呟くと、また笑い出す。
「『瀬川女王様』のことを下の名前で呼ぶやつがいないからさ。すぐに分からなかったよ」
「で、調子はどうだ。機嫌が悪かったりすると、面倒くさいぞ」
「今のところは平穏だ。でも、いきなり悪くなることもあるから安心はできない」
「そうか」
ゼミの頂点に座する女王、瀬川ヒヨコのことを考える。まだ彼女の本性が露わになっていなかった、二年前の春の彼女を。
私の星の技術は、間違いなく地球よりも発展している。しかし未だにタイムマシンは開発されていない。
星間飛行を楽にする宇宙船が開発されたとき、研究者たちは喝采を浴びた。タイムマシンはどうしても開発不可能だと発表した途端、手のひらを返され、多くの嘆息を浴びた。私も手のひらを返した一人だった。
もしタイムマシンが開発されていれば、と思わずにはいられない。私は絶対に過去に飛ぶだろう。彼女に出会わなかった道を選び取るために。
***
「ヒヨコ?」
私はすぐに、薄い黄色の鳥類を想像した。鳥の雛だ。
「違う、陽与子」彼女はわざとらしく、ふくれっ面をする。「キノコと同じイントネーション」
そう説明されても困る。地球の言葉はかなり覚えたつもりだが、発音の問題は簡単に解決できない。
「わたし、ヒヨコって呼ばれるの、あんまり好きじゃないの」
申し訳なさそうにして、上目遣いで見つめてくる。
「いいじゃないか。ヒヨコ。可愛いと思うが」正直な意見だった。
彼女はわずかに目を丸くして、「ええ、本当?」と嬉しそうに表情を緩めた。「ありがとう、嬉しいな」と笑顔を作った。
今にして思えば、とんでもない演技だ。
彼女の性格を錯覚したのは、その頃からだ。当時、偶然隣にいた曾根崎は「あの先輩、めっちゃ可愛い人だな」とにやけていた。要するに、私たちは同時期に、揃って騙されたわけだ。
新入生歓迎という名目で、学科の一年生はいくつかの教室に分けて集められた。そこで、私たちは初めて顔を合わせた。
以来、彼女は頻繁に私に接近し、心的な距離を縮めた。履修の相談に乗ってもらい、自分のいるゼミに来いと勧誘され、私と曾根崎は疑いもせず従った。
二年生に進級した途端、彼女は仮面を外した。時すでに遅し、彼女から離れるという選択肢は、すでに蜃気楼のように消えていた。
「何故、私と曾根崎を選んだ?」私は尋ねたことがある。何故、下僕に選んだ? と言うのは控えた。
「ちゃんと、わたしの言うことに従ってくれそうだから」
あっけらかんと言い放つから、思わず動揺した。
「だけど、あんたを選んだのは失敗だったかもしれない」鋭く睨まれた。
「勝手に騙して従わせて、挙げ句の果てに失敗だった、と。訴えても文句は言われないな」
「そういうところ」指を差された。「生意気なの。表情も変えないで、いっつもなに考えてるの?」
「私のようなやつを、生意気というのか」
「あと、そういうところも。宇宙人みたいでキモい」
よい観察眼をしているな、という言葉を飲み込む。
ふと、私は宇宙船で働き始める以前の記憶を蘇らせた。
「また、お前の顔を拝んでやるからな」
あの男は、黒々した眼で見つめた。
どうしてその記憶が蘇ったのか、理解したのはまだ先のことだ。




