270 外洋航海訓練 2 船内の監督
二十日間の訓練航海に出航し、問題なく訓練の日々が過ぎていく。
嵐を乗り越え、無事に生還した経験を経たことで自信を付けた若い船員達が、平時に余裕を持って行動するようになった。
事実、各所で響いていたベテラン達の怒声も減っている。
おかげで、問題らしい問題など起きず、まさに順風満帆の船旅を過ごせていた。
むしろ逆に、提督であるバルトロメオ、そして船長、副船長達は、これで油断して気を緩めないよう、口うるさいことを言って回る必要があったくらいである。
特にバルトロメオは、恐れられ、嫌われる役は年寄りの仕事だと、望むところで厳しい提督を演じていた。
おかげで、バルトロメオとの付き合いがまだ短い若い船員達は、バルトロメオが船内の様子を監督して回ると、緊張のあまり硬い動きで敬礼するのが常である。
もっとも、海軍から引き抜かれてきたベテランの船員達には、それらはお見通しであったが。
そのようなわけで若い船員達にとっては緊張の時間になり迷惑だろうが、それら監督とは別に、バルトロメオは船内を見て回るのが好きだった。
「ふむ……今朝もいい匂いだ」
朝、船体中央付近の通路を歩いていると、ふわりと、パンが焼けるいい香りが漂ってきて、思わず笑みがこぼれる。
「毎日焼き立てのパンを食べられるなど、実に贅沢で、実に良いことだ」
普通、船内でパンを焼くことなどない。
保存食となる、水分を少なめに日持ちするよう固く焼いたパンを積み込み、そのパンを浸して柔らかくするためのスープとセットで食べるものである。
しかしこの訓練船団では、毎日パンを焼いていた。
厨房に魔道具のオーブンが設置されたおかげである。
もし他の船でこれを真似するのであれば、重たいパン焼き用の石窯を設置し、大量の薪を積み込まなくてはならない。
それが、軽量な魔道具のオーブンを設置し、火属性の魔石の予備を少量用意するだけで済んでいるのである。
さらに言えば、固く焼いたパンを積み込むにしても、水分が少なめで軽いとはいえ、数が揃えば嵩張るし重量も増え、保管場所を圧迫する。
それが、小麦袋をそのまま積み込むだけで十分なのである。
「時代も変わったものだな……航海の常識から変わってしまったのだから無理もないが」
加えて、魔道具のコンロのおかげで、スープを作るための薪すらもいらなくなったのだから、積載する物資が大幅に減らせていた。
たかがパン一つ、スープ一杯。
されどパン一つ、スープ一杯である。
さらに言えば、魔道具の水筒のおかげで、飲み水にすら困らない。
水はすぐに腐って飲めなくなる。
数日保てばいい方だ。
だから、腐らず長期間保存が利く、酒を持ち込むのである。
水で薄められたワインを水代わりに飲むのが常であるが、その大量の酒瓶の保管もまた非常にスペースが必要になる。
それが水筒一本で済むのだから、その省スペース化は著しい。
その上、冷蔵庫、冷凍庫が厨房と食料庫に設置されたおかげで、毎日新鮮な肉と野菜、果物が食べられるのだ。
しかも省スペース化はそれだけに留まらない。
改めて、マリエットローズのプレゼンを思い出す。
『もし、長期航海で毎日新鮮な卵やお肉を食べ、山羊乳を飲もうと思ったら、船内で鶏、山羊、豚を飼育しないといけません』
『そのための飼育スペースが必要になり、同時に家畜用の飼料も積み込む必要が出てきます』
『加えて、船内が非常に不衛生になり、家畜の世話と同時に船内の清掃の負担が大きくなります』
『もし清掃を怠れば、病気を媒介する虫やネズミの船内への侵入や繁殖を許してしまい、船員達が病気に罹りやすくなり、最悪、助けの来ない海の真っ只中で伝染病が蔓延し、全滅する可能性すらあります』
衛生観念や病気とは何かと言う、非常に難しい、それこそ医者や学者でもないと知らないような、いや、医者や学者ですらどれだけの者がそれを知っているだろうかと思うような、非常に難しい話で、年寄りとしては話に付いて行くのも大変だった。
しかし、バルトロメオにとっては、結果的に船内の省スペース化が実現し、固く焼いたパン、干した肉や野菜や果物と言った、味気ない食事を毎食、何日も続けなくて済むのは、非常に歓迎すべき状況だったので、何も問題はない。
唯一、毎日ライムの新鮮搾りたて果汁を飲まなくてはならないのが、酸っぱい物が苦手なバルトロメオにとっては、少々の苦行ではあったが。
「うむ、それぞれの船室も綺麗に片付け、清潔にしているな」
さらに、これまでの帆船とは違う毎日の暮らしぶりで言えば、ハンモックでの就寝である。
嵐に遭った夜、揺れるハンモックがどれほど頼りになったことか。
初めはベッドでないことに戸惑いを覚えたが、今ではハンモックで正解だったと思っている。
もし普通のベッドであれば、嵐に翻弄された船の中では、寝るに寝られなかっただろう。
ベッドから放り出され、また、部屋の中を倒れて転がりベッドなど家具にぶつかり、怪我をした者が大勢出ただろうからだ。
そうして、大きく空いたスペースの一部を使って設置されたのが、シャワーである。
潮風に吹かれて肌はべたつき、髪はボサボサになって痛み、汗が染み込んだ服を洗濯することすら出来ない毎日だった。
それが、毎日シャワーで綺麗さっぱり洗い流し、洗濯までして、清潔そのものである。
長期航海ともなれば、汗や体臭で船内は非常に酷いことになるのだが、それがない。
衣食住、全てが快適すぎるほどに快適。
「まるで移動するホテルで暮らしているような気分だな」
特にベテラン船員以上は、皆共通の思いだ。
「若い連中が贅沢に慣れるのはどうかと思うが……」
対して、従来の帆船での生活経験が少ない若い船員達は、ほぼ最初からこの魔道帆船の暮らしを享受出来ているため、ピンと来ないようである。
これだから最近の若い者は。
そう、つい愚痴めいたものが出てしまうのは、年寄りの悪い癖だ。
しかし、そう思いながらも、言わずにはいられないところだった。
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