269 外洋航海訓練 1 マリエットローズの導き
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「積み込む食料の量を間違えるなよ! 今度は二十日の航海だ、途中で足りなくなりましたでは洒落にならんぞ!」
「「「「「アイサー!」」」」」
「予備の帆布、ロープ、魔石のチェックも忘れるな!」
「「「「「アイサー!」」」」」
フィゲーラ侯爵領沖に浮かぶ無人島であるセプ島。
そこに密かに建設されたセプ港では、幾度目かの出港準備が進められていた。
活気と熱気に溢れた船員と職員達が、忙しく船と倉庫を往復し荷を積み込んでいる。
「半人前……と呼ぶにはまだまだ早いが、順調に育ってきているな。実に喜ばしい」
ベテランの船員達に指揮されて、荷を抱えて動き回る若い新米船員達は、ようやくヒナとしてよちよち歩きを始めたと言うところ。
訓練船団の提督バルトロメオ・ガルバンは、事務棟の窓からその光景を眺め、満足げに頷く。
「一時の熱狂と過信に終わるのか、本物になるのか。次の航海こそが、海の男としての真価を問われるのだからな」
一泊二日の訓練航海は、散歩のようなものだった。
バルトロメオですら外洋の大きな波と強い風に大きく揺れる船は初めての体験だったが、大きな問題は起きなかった。
ようやく船に慣れて船酔いしなくなってきた若い船員達が、再び船酔いに苦しめられたくらいである。
次の三泊四日の訓練航海では、難しい問題に直面した。
一日以上掛けて陸から離れ、三百六十度、見渡す限り海しか見えない光景に、若い船員達が本当に陸へ戻れるのかと不安を覚え、ヒステリックな言動をする者が現れたのだ。
しかしそれは、船医が心のケアを行ったことで反抗的な態度や暴動などには至らず、事なきを得ている。
バルトロメオは、これがマリエットローズが危惧していた事態だったのかと、その先見の明に驚きを隠せなかったものだ。
若い船員達は、主に船員育成学校を卒業した貧民や孤児達である。
海軍の軍人や漁師として、毎日のように船に乗って海に出る生活をしていなかったため、本当の意味で海の怖さを知らない。
その経験不足からくる未熟な精神は、経験を積むことでしか鍛えられないだろう。
短い日数で刻むように訓練する意図はそこにあったのかと、重ねて驚いたものだ。
バルトロメオの世代では、精神論、根性論で叱り飛ばし、時には殴りつけ、理不尽に慣れさせ耐えさせることで、その手の問題を克服させてきたのだから。
三泊四日の訓練を幾度か繰り返し、そのたびに陸へ戻れることを証明したことで、若い船員達も不安を覚えなくなってきた頃、七泊八日とさらに倍の期間、訓練航海へと出た。
期間の長さに若干不安を覚えた者も出たが、それでも、三泊四日の訓練で慣れさせたおかげで、最初のような事態にはならなかった。
しかし、まるでその代わりと言うように、大きな問題に直面した。
嵐だ。
激しく吹き付ける雨風。
大きくうねり荒れ狂う波。
軋み、大きく傾き、波に翻弄され流される船体。
バルトロメオを始めとした海軍出身の者達であれば、時化に遭った経験くらい幾度もある。
だが、外洋でのそれは、沿岸でのそれとは激しさの桁が違った。
バルトロメオ達ですら、無事でいられるか不安を覚えたくらいである。
若い船員達であれば、なおさらだっただろう。
もし乗っていた船が従来の十数メートル程度の帆船であれば、転覆するか、マストが折れるかして、漂流していたかも知れない。
しかし、マリエットローズが手がけた三隻の帆船は、生半可ではない嵐でも耐えきってみせた。
さらに心強かったのが、最新の羅針儀である。
ジンバルと言う機構で、どれだけ揺れても常に水平を保ち北を指し続けるおかげで、船が暴風と波に翻弄され流されている間も、決して方位を見失うことはなかった。
加えて、土台に刻まれた反時計回りの北東南西の方位のおかげで、どの方角へ向かって流されていくのか、一目瞭然だったのである。
だからバルトロメオが厳しく指示したのは、嵐の中でも砂時計を繰り返し反転させ、時間を計り続けることだった。
やがて嵐を抜け、波が穏やかに、青空が戻った頃。
すぐに六分儀を使い、船の現在地を調べさせた。
もちろん、星表、月行表、経度を計算する新しい数式を元に。
そして、初めての大きな嵐に、船体にどれほどのダメージが出たか、それを調べ、航海に問題はないことを確認した上で、大事を取って訓練航海を中断し、セプ港へ帰港することにした。
調べさせた座標が本当に正しいのか、その確認がしたかったのだ。
さらに言えば、初めての大嵐に、若い船員達が憔悴していたこともある。
そうして、船は無事に帰港。
嵐の後で調べた緯度と経度の位置座標が正しいことが証明された。
誤差はごくわずか。
従来の帆船よりずっと高いマストの見張り台から遥か遠くまで見渡せるおかげで、問題のない範囲に収められたのである。
これには、誰もが驚き、湧いた。
海軍出身の海に慣れた者達ですら、驚きを隠せなかった。
嵐に遭っても遭難しない。
周囲全てに海しか見えなくても、自分達が居る場所が分かる。
それは画期的で、驚異的で、素晴らしい朗報だった。
その後の徹底的なメンテナンスで、船に大きなダメージが残っていないことも明らかになり、さらに湧いたのは無理からぬことだろう。
主と仰ぐゼンボルグ公爵の愛娘、マリエットローズ。
その王女殿下たるマリエットローズがもたらした数々の技術のおかげで、自分達は無事港に戻ることが出来た。
大嵐に遭っても生還できるマリエットローズの船があれば、怖い物など何もない。
その信頼が、あらゆる不安と恐怖を吹き飛ばし、船員達に自信を持たせたのだ。
マリエットローズの名を、そしてポセーニアの聖女と称える声が、大合唱となったくらいである。
その後、改めて行われた七泊八日の訓練では、不安を訴える者など一人も現れなかった。
この船であれば、必ずや生還できる。
マリエットローズが導いてくれる。
その信頼は、何物にも代えがたい程に、大きかった。
おかげで、七泊八日の訓練は無事に終了し、次の二十日間の訓練を不安に思う者など、誰一人として出なかった。
余談となるが……。
三隻の練習船の船首像を全て、マリエットローズに変えよう。
そう、全員から熱い具申があった時は、船員達を落ち着かせるのに非常に苦労した。
何しろ、バルトロメオですら、心情的には賛成したかったくらいである。
だから、思わず二つ返事で許可してしまいそうになったのは、秘密だ。
似ているだけならまだしも、本人そのものはさすがに不味い。
王女殿下たるマリエットローズ本人と国王たるゼンボルグ公爵の裁可を戴かなくてはそのような真似は出来ないので、勝手に許可するわけにはいかないのだ。
なので代わりに、漁師や一般の船員達の間で広まりを見せているマリエットローズの絵姿をお守りにすることを真似し、マリエットローズの絵姿を全員に支給することで納得させたのだった。
そんな顛末もあったが、目に見えて良い効果が出ている。
海を無用に恐れる者は、もはやいない。
進む出港準備に、バルトロメオは思わず笑みをこぼす。
いつしか船に乗ることは当たり前になり、仕事としての意味以外を失っていた。
しかし今は早く船に乗りたい。
そう、まるで少年のように胸を高鳴らせながら、バルトロメオは出港準備完了を楽しみに待ち続けた。
いつも読んで頂き、また評価、感想、いいねを頂きありがとうございます。
個別の返信は出来ていませんが、感想はちゃんと全て読んでいます。
励みになると同時に、皆さんがこの作品のどこに注目し楽しんでいるのか、執筆時の参考にさせて頂いています。
また、誤字脱字の指摘もありがとうございます。
全てを、また即座にとはいきませんが、修正すべきは修正しています。
本日、この作品を投稿開始して二年が経ち、三年目に突入しました。
資料を調べ、それを元に何度もプロットを修正すると言う作業をしているため、投稿期間の割に話数は決して多くはありませんが、ここまで続けてこられたのは、読者の皆さんの応援のおかげです。
お蔭様で、書籍化することも出来ました。
書籍を買って頂いた方、本当にありがとうございます。
より一層、執筆に熱が入ると言うものです。
そして、第二巻以降も発売出来るかは、書籍の売り上げが大きく影響しますので、これからも是非応援をよろしくお願いいたします。
それと一つだけ、海洋関係のお勧めの本を紹介して下さり、また私の海洋関係のお勧めの本を知りたいと言う方がいらっしゃったので、こちらの方で、ちょっとだけ。
この作品の執筆に際して参考にしている本は、読み物としてより文献として、作品に使えそうな箇所だけを掻い摘まんで、資料としてまとめながら読んでいます。
全てをじっくり読み込むには、どれだけ時間があっても足りないので……。
なので、自信を持って紹介するには少々あれで申し訳ありませんが、そんな本に目を通しているんだな、程度の話にしておいて頂けると……。
「海戦の世界史」「航海の歴史」「戦闘技術の歴史1」「ローマ亡き後の地中海世界」「女海賊大全」「真珠と大航海時代」「海賊の日常生活」など。
海洋関係以外にも、地理や歴史関係なども読み、資料としてまとめているので、今更ながらにお勉強をして、大学のレポートを書いているような気分です。
励みになりますので、よろしければブックマーク、評価、感想、いいねなど、よろしくお願いいたします。




