265 貧民街の今
他にも、例えば海底の地形調査とか、救命艇協会の設立とか、手を付けたいことは色々ある。
だけど、手を広げすぎては人手が足りるか分からない。
財政への負担も気になる。
それに、私、何よりお父様への報告書の枚数が、以前と比べて山のように増えてしまっているから、私はともかく、お父様の負担にもなってしまう。
通常業務を圧迫して、領地経営が疎かになってしまっては本末転倒だものね。
だから、私が新しく何かに手を付けるのは一旦保留。
何かしら結果が出るか、業務に余裕が出る段階へ進展するまで、緊急性が低い案件については性急に事を進めるのをしばらく止めておこうと思う。
でも、海底の地形調査くらいなら……いいかな?
海沿いの領地の領主に依頼すれば、私達でやる必要はないし。
その辺りはまた後日改めてお父様と相談で。
じゃあ、新しく何か始めないとやることがなくなってしまうかと言えば、そんなことはない。
今日は貧民街で炊き出しをする日だ。
「はい、みんな、慌てなくても大丈夫。ちゃんと全員分あるから、行儀良く並んでね」
貧民達が作った列に声をかけると、みんな行儀良く並んでくれる。
最近は、列の横入りや、先に貰った人達から横取りするなどの、不正行為は滅多に見なくなった。
そして、列に並ぶ人の数も、以前と比べて少し減った気がする。
「いつもありがとうございます姫様」
「ありがとう姫様!」
「あいあとぉ!」
今日も笑顔で丁寧にお礼を言ってくれる、貧民達の顔役のジスランさんと、足腰が弱いジスランさんの世話や雑用をしている、近所のまだ幼い子供達。
だから私も、にっこり笑顔を返す。
「ええ、どういたしまして」
嬉しそうにはにかむ子供達が可愛いわ。
ついでとばかりに、ジスランさんに疑問をぶつけてみる。
「ここ最近、炊き出しに並ぶ人の数が少し減ったように見えますけど、何かありましたか?」
「ああ、そのことですか。それもこれも、姫様のおかげです」
「私の?」
「はい、貧民街の再開発のおかげです」
詳しく聞けば、なるほどと思ったわ。
今、職業訓練学校を作るため、まず貧民街の古くてボロくてゴチャゴチャとひしめいている住居を取り壊して、そこに安く入居できるアパートを建設している。
計画が実行に移されてから半年近くが過ぎ、すでにいくつものアパートが建てられ、入居も始まっていた。
領主の娘である私が主導する計画だから、関わる商会や職人の数が多くなるのは当然として。
日雇い労働者もかなりの人数になって、解体も建築も複数箇所同時に行えているそうだから、予想より随分と早いペースで進んでいるみたい。
貧民達も自分達が住む家のことだから、大勢日雇い労働者として働いているし。
おかげで、すでに百人近い貧民が入居しているそうよ。
もちろん、貧民にだって適正な賃金が支払われているわ。
貧民を見下して賃金を支払わなかったり上前をはねたりするような業者は、いくら手が足りなくても、弾いて二度と仕事の依頼をしないときつく言い含めておいたからね。
このゼンボルグ公爵領で、領主であるお父様と娘の私に睨まれて商売が出来るはずないもの。
効果はてきめんで、今のところその手の大きなトラブルはないみたい。
おかげで、貧民達の懐が温かくなっているそうよ。
「そこで、すぐに食べ物に使い切ってしまうのではなく、少しだけ貯金をして、それから貯金を使って綺麗な服や靴を買って、身だしなみを整えなさいと指導したのです」
「それは、すごく大事で、いいことね」
「はい。姫様が商会や工房に、貧民でも使える者は雇って欲しいと言って下さったおかげで、真面目で優秀な者の中から、商会や工房に雇って貰えた者が出ているのです」
「だから、炊き出しに並ぶ人達が減っているのね。すごくいいことだわ」
私も古着を配ったりもしたけど、飽くまでも、貧民がそれまで着ていたボロよりマシと言う程度で、こざっぱりと綺麗な服、と言うわけではなかったものね。
新品の服は基本オーダーメイドで高く、貴族や商会などの金持ちくらいしか買わなくて、平民の多くは古着を売買したり繕ったりして着ている。
貧民がその平民レベルの古着を買って着られるようになったのなら、ほとんど貧民から脱したと思っていいだろう。
就職先が見つかったのなら、なおさらね。
「この調子で、一人でも多く炊き出しに並ぶ必要がなくなればいいわね」
「それもこれも、全て姫様のおかげです」
「いいえ、私は単なる切っ掛け。チャンスをあげたに過ぎないわ。真面目に働いてそのチャンスを掴んだのは本人の努力の結果よ」
「相変わらず、謙虚なお方だ。頭が下がります」
「もう、頭を上げて下さい」
とても腰が低い人で、時々困っちゃうわ。
私は本当に単なる切っ掛けで、大したことをしたわけではないもの。
でも、ジスランさんは貧民街の顔役として、色々と感慨深いのでしょうね。
「ねえねえ、お腹空いた~」
「すいた~」
子供達が、ジスランさんの服の裾を引っ張る。
「あ、ご免なさい、長々と話し込んでしまったわね。ゆっくり味わって食べてね」
「うん!」
「うん~」
手を振る子供達に手を振り返して、会釈するジスランさんに軽く会釈を返す。
それから他の並んだ人達とも少し話をしてみた。
貧民街が綺麗になりつつあること。
仕事がいっぱいあること。
みんながたくさん食べられるようになってきたこと。
犯罪が減って、少しだけ安心して暮らせるようになってきたこと。
そして、新しく綺麗なアパートに早く入居したいことと、用地確保が進んでいる職業訓練学校入学への期待。
みんな、それらを明るい顔で楽しそうに話して聞かせてくれた。
炊き出しに参加するようになった頃は、みんな俯き気味で、ろくな会話もなく、ただ貪るように食べるだけだったのに。
それが今では、顔を上げて、笑顔を見せてくれるようになった。
少しずつ、いい形が出来上がってきている。
その手応えが、すごく嬉しい。
だから、そのいい流れを断ち切らないためにも、みんなが食べ終わったら、すぐにお仕事の時間だ。
箒とちりとり、モップとバケツ、ゴミ袋と荷車。
それらを前に声を張り上げる。
「さあ今日も、貧民街のお掃除を始めましょう!」
「「「「「おう!」」」」」
子供達ばかりじゃない。
今では大人達も一緒に声を上げて、手にしたモップやちりとりを突き上げて答えてくれる。
みんなの明るくやる気に満ちた顔に、自然と口元が綻んでしまうわ。
私も負けないように頑張らないとね。
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