123 閑話:エマ日記 お嬢様だけでなく奥様も可愛い
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お嬢様の生活は、これまでお勉強とお仕事一色でした。
ですが、若様がお生まれになってからは、そこに若様を愛で、構い、教育する義務感と楽しみが増えたようです。
今日も集中して早々に授業を終わらせたお嬢様が、わずかな時間も惜しんで奥様の寝室へとやってきています。
「そこで、うみのめがみポセーニアはおっしゃいました」
ベビーベッドの脇に置いた椅子に座り、膝の上に本を広げたお嬢様。
可愛らしい読み聞かせの声が静かに流れます。
「『ひとは、おかにせんをひいて、くにをつくった。しかし、うみのうえにはせんをひけぬ。それすなわち、うみはひとのものではないということ。うみをかってにわがものにしてはならぬ』」
あたしも、お嬢様が今よりもっと幼い頃、よくせがまれて読み聞かせをしていましたね。
今ではもう、そんな機会はなくなりました。
なんだか懐かしく、ほんの少しだけ寂しさを覚えます。
「『しかし、だいちのめがみが、くさを、きのみを、けものを、かてとしてあたえたように、われもひとにかてをあたえよう。うみぞこにはえるくさを、さかなを、かいを、えびを、かにを、さめを、くじらを。いとしきこであるおまえたちがうえぬだけは、うみへたちいり、りょうをすることをゆるそう』」
ですが、可愛らしいお声に反して、その語り口は厳かです。
何しろ古くからこの地に伝わる、創世神話を読み聞かせているのですから。
ゆっくりと、幼い子供が聞き取りやすいように、理解出来るようにと気を遣いながらなのは、お嬢様の心根が大変お優しいからでしょう。
ただ、さすがに生後間もない赤ん坊に神話の読み聞かせは、少々早すぎる気がしますが……。
「そうして、うみのめがみポセーニアは、ひとにふねを、つりざおを、とあみをあたえました」
切りよいところまで読み進めたお嬢様が若様に目を向けると、すでに若様は静かな寝息を立てていました。
その安心しきった安らかな寝顔に、お嬢様の顔がデレッとだらしなくなります。
「あぁ……エルちゃんの寝顔はいつ見ても可愛い♪ エルちゃんのためなら私、世界だって敵に回せるわ」
何やら物騒なことを言っていますが……その愛情が本物であることは、疑いの余地はありません。
「お嬢様、お疲れ様でした。こちらをどうぞ」
「いつもありがとう」
若様のお世話係を拝命している同僚のメイドが、読み聞かせで喉が渇いただろうお嬢様にお茶を淹れてカップを差し出しました。
「お嬢様は本当に、若様のことが大好きですね」
「うん♪ 当然よ」
「でも、わたし達の仕事までは取らないで下さいね?」
「それは……善処するわ」
思わず視線を泳がせるお嬢様。
若様のお世話係のメイド達が、微笑ましそうにしながらも、苦笑を漏らします。
本当に、誰が見ても一目で分かるくらい、お嬢様は若様が大好きです。
姉弟仲が不仲であったり、無関心であったりするより、よほど良いでしょう。
ただ、今回の読み聞かせのように、少々行き過ぎと思うことも多々ありはしますが。
「赤ちゃんにはね、いっぱい話しかけてあげるのがいいのよ。それだけ家族からの愛情を感じられるし、絆が深くなって、いい子に育つんだから」
「そうなのですか?」
「ええ、そうよ。だから、みんなもいっぱいエルちゃんに話しかけてあげてね」
「「「はい、お嬢様」」」
若様のお世話係のメイド達が、肝に銘じるように頷きます。
子供が言うことだからと、お嬢様の言葉を軽く見る者は、ゼンボルグ公爵家の使用人の中には一人もいません。
お嬢様が天才と称していい程に利発で、大人に負けないくらい理解力があり思慮深いこと、そして魔道具を始め、浮き輪やライフジャケット、安全ベルトなど、人命に関わる品々を発明して、大勢の命を救っている事実を知らない者はいないのですから。
ただ……。
この姉弟仲の良さが、奥様がお悩みになり、寂しさを覚える原因となっているようですが。
先日も、お嬢様が旦那様の執務室でお仕事中、コッソリ相談されてしまいました。
「ねえ、エマ」
「はい、奥様」
「わたしが聞いたところによると、上の子は下の子が生まれると、親が下の子を構うと疎外感を覚えたり、独占欲を見せて親に構って貰おうとしたりして、急にいい子になって褒められて親の歓心を買おうとしたり、下の子を押し退けて親を独占したり、悪戯や問題行動を起こして自分を見て貰おうとしたりするのよね?」
「はい、そういうことがあると聞きますね」
実はあたしも、今になって我が身を振り返れば、多少ながら心当たりがあります。
あたしには兄と弟がいますが、弟が生まれたとき、あたしもお勉強を始めたいと親におねだりしたことがありました。
きっと幼心に自分を見て欲しくて、そんなことを言い出したのでしょうね。
「でも、マリーを見ていると、そんな様子は全く見られないわ。むしろ積極的にエルヴェの面倒を見て、まるで母親の役割を取られてしまったみたいよ」
確かに、お嬢様は若様に構い過ぎる程に構ってお世話していますからね。
たまに『お嬢様は若様の母親ですか!?』と突っ込みたくなります。
もちろん、そんなことは絶対に口にしませんけど。
「マリーは聞き分けが良くて分別もあるし、とても大人びた考え方をするから……もしかして、もう親離れをしてしまったのかしら……」
奥様が、頬に手を当てて、寂しそうな憂い顔で大きな溜息を吐きます。
「ねえエマ、いくらマリーが賢くて大人びていても、まだ子供よ? 親離れは早すぎないかしら?」
失礼ながら、お嬢様の関心が薄れてしまったのではと真剣に悩み寂しがる奥様を、ちょっと可愛いと思ってしまいました。
「心配ありませんよ奥様。お嬢様は奥様も旦那様も大好きですから」
「それはよく分かっているけど……」
もっとも、かく言うあたしも、似たような寂しさを覚えるときがなきにしもあらずなので、あまり奥様のことを言えませんが。
「大丈夫ですよ奥様。だってお嬢様は――」
「エマ」
お嬢様に呼ばれて、思い出していた情景から、目の前のお嬢様に意識を戻します。
「お父様は夜会参加の準備にお忙しくて、執務のお仕事はお休みにされてしまったし、オーバン先生も開発チームもまだフィゲーラ侯爵領から戻っていないから、一人で開発も進められないし、今日の午後は完全にフリーになってしまったの」
はい、そう本日の予定を聞いています。
「急に時間が出来てしまって……何をしたらいいかしら?」
まだ七歳なのに、まるで仕事ばかりしてきて趣味の一つもない父親みたいなことを……。
これはいけません。
仕事しか生き甲斐がないなんて、淑女としてあまりにもあまりでしょう。
なんとかしなくては……。
……そうだ!
「でしたら、奥様と刺繍をしてはいかがですか? 若様の出産もありましたし、最近あまりご一緒の時間を取れていないのでは?」
「そうね……言われてみればそうかも。うん、そうするわ♪」
お嬢様は早速、居間で休憩されている奥様の所へ行きます。
「ママ、あのね?」
モジモジしながらのお嬢様のおねだりに、奥様の顔が輝きます。
奥様は早速お付きメイドに指示をして、刺繍の道具を揃えさせました。
「マリーと一緒に刺繍をするの、久しぶりね♪」
「えへへ♪」
お嬢様が奥様の隣に腰掛けます。
すると、奥様が嬉しそうに頬を染めて、あたしを振り返りました。
『言った通りでしょう?』
言葉にしませんが、そう微笑みを返します。
だってお嬢様は、恐らく無意識でしょうが、いつも以上にべったりと奥様にくっつくように座っているのですから。
どれだけ大人びていても、お嬢様もまだまだ子供。
親に甘えたいし、独占もしたいのです。
そこからは母娘二人だけの、温かく穏やかな時間が流れます。
お嬢様も奥様も、いつも以上にいい笑顔で、声も会話も弾んでいました。
こういうところは、似た者親子だなと思います。
本当に、お嬢様も奥様も可愛らしいです。
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