なぜだが、気が晴れたような
(こんなに怠惰な日々を過ごしたのは初めてだわ)
十なん日目かの朝、アロナはようやくベッドから起き出した。枕元のベルを鳴らし、湯浴みの用意を頼んだ。すぐに乳母がやってきて、彼女の体を隅から隅まで確認する。
「病気も怪我もしていない。私はちゃんと、生きているわ」
そう、生きている。生きたくもないのに。
この十なん日間ただただ泣いて過ごすという日々を送った結果、アロナの整った顔はそれはそれは悲惨なものになった。
まぶたどころか全体的に赤く腫れ上がり、視界がいつもよりずっと狭い。飲み物以外をほとんど口にしていないせいで、手にも足にも力が入らなかった。
「アロナお嬢様。お支度が整いました」
「ええ」
彼女は元々、年齢よりもずっと大人びた性格をしていた。顎が浸かるまで湯船に身を沈め、ゆったりとした様子で深い溜息を吐く様は、とても五歳には見えなかったが、誰一人として言及するものは居なかった。
(なんだか馬鹿馬鹿しくなってきたわ)
人間というものは不思議なものだと、アロナは思う。全身が干からびるのかと思う程に泣き、汗を流しさっぱりと身を整えた。
すると今度は、空っぽになった胃袋に何かを詰め込みたくて堪らなくなる。
「部屋に食事を持ってきてちょうだい」
「ですがお嬢様…」
「いいから」
「かしこまりました」
きっと今頃、両親のはらわたは煮えくり返っていることだろうと、アロナは思う。なぜか今はそれさえ、ちっとも怖いと思わない。勝手に怒っていればいいと、機嫌をとることさえしなかった。
「おいしいわ…」
柔らかなパンに、豆のスープ。ただそれだけの質素なものだったが、アロナはこれまで食べたどの料理よりもおいしいと感じた。頭のてっぺんから足の先まで、染み渡っていくような感覚だった。
(どうせあの人達は、ここには来ない)
自ら何度も子供部屋に足を運ぶような両親ではないことは分かっている。アロナはゆっくりと噛み締めながら、たっぷりと時間をかけて食事を楽しんだのだった。
「私、それが着たいわ」
「ですが奥様がなんと仰るか…」
「クローゼットに入っていたものなのだから、構わないわよ」
三度の人生では選ぶことのなかった、オリーブ色の地味なドレス。髪を結うこともせず、装飾品をつけることもせず、アロナはそのまま部屋を出た。
「アロナ!お前は一体何を考えているんだ」
一階のパーラーに降りていくと、案の定すぐに父であるサムソンからの叱責が飛んでくる。
「十日以上も部屋に篭りきりでだらだらと過ごして、それでもフルバート家の娘なの?」
サムソンに加勢するように母グロウリアも彼女に厳しい目を向ける。
両人共に公爵家に相応しい威厳と品格を備えた、正に由緒正しい貴族の手本そのもの。どれだけ折檻されようとも、躾と称し軟禁されようとも、アロナは両親を尊敬していたのだ。
しかしその気持ちも今は全くない。権力と金にしがみついているだけの、哀れな大人達にしか見えなかった。
「体調が優れなかったのです」
アロナの腫れた顔と痩けた体を見れば、それが嘘ではないとすぐに分かる。けれど彼らにとって、真実などどうでもよかった。
ただ一点、娘が親に逆らった。それだけが事実なのだ。
「そんなくだらない言い訳は必要ない。娘でありながら親を敬わないその態度が問題だと言っているのだ」
アロナは父を冷めた瞳で見つめながら、長い溜息を吐く。
(五歳の娘に対して、心配すらしないのね)
「今溜息を吐いたな?お前親に向かって」
「同じことを繰り返すのならば、もう部屋へ戻りたいのですが」
その瞬間、アロナの小さな体は吹っ飛んだ。幸い、柔らかな絨毯のおかげでさほど痛みはない。
「この…なんというふてぶてしい態度だ…っ」
「アロナ。お父様に今すぐ謝罪をしなさい」
「嫌です。殴りたければ、どうぞお気の済むまで」
(どうせもう、三度死んでいるのだから)
群青色の瞳は、黒く濁っている。
それを見た両親は、まだたった五歳の子供から感じるただならぬ狂気に、思わず背筋を震わせたのだった。




