アマオト
晴れ渡る青空、からの俄雨。
小春日和の中、ぼんやりと思考を巡らせながら海岸線を歩いていると、ぽつぽつと雫が地面をたたき始めた。白いブラウスと紺色のスカートが、空から零れてくる水滴によってどんどん色を変えていく。
「どうしよう…」
背負っているリュックには、大切な画材道具がところ狭しと詰め込まれていた。生憎傘の用意はなく、それらを守る術がないことに困惑した。そんな時ふと目に入ったのは、道路の脇にぽつんと建つ古びた店だった。
「純喫茶、かまくら」
掲げられた木彫りの看板の文字を読み上げる。見るからにレトロな、客の少なそうな喫茶店だった。この建物に足を踏み入れるか、このまま濡れ続けて家路につくか。それがあたしに設けられた選択肢だった。普段なら絶対立ち寄らないであろう喫茶店を前に入店をためらうが、背に腹は代えられない。恐る恐る店前の庇に身を隠し、その重厚感のある扉に力を籠めた。
扉を開くのと同時に、カランカランと軽快な鈴の音が鳴った。そっと扉の隙間から覗き込むが、店内は薄暗く人気はなかった。
「…もしかして、休み?」
静かな店内に、自分の呟いた声だけが響く。
バーカウンターに、きちんと並べられた五つの椅子。四人掛けのテーブルセットが、三席設けられている。建物の見た目とは裏腹に、手狭ながらも店内は綺麗に整理されていた。純喫茶独特の、煙草や新聞の匂いもしない。店主の趣味嗜好が反映されているのだろうか。
「お邪魔します…」
扉の鍵を閉め忘れていただけで、喫茶店自体は休みなのだろうか。いや、それにしては不用心すぎる。頭の中で自問自答を繰り返しながら、店内に足を踏み入れた。
すると、部屋の隅に、二階に続く螺旋階段が見えた。階段のお洒落な作りに感心した後、ある考えが浮かんだ。もしかしたら、二階で店員が休憩しているのかもしれない。
「…すいません!」
普段より大きい声で階段の先に向かって呼びかけてみる。しかし、誰からも応答はなく、静けさだけがたたずんでいた。
そっとその場に重い荷物を下ろすと、不躾かとは思いながらも、ゆっくりと階段を上った。
一歩一歩踏み出す度に、階段を構成する木材の軋む音が響く。
「こわ…。底、抜けないよね」
先程と同じように「すいません」と人の気配のない二階に向かって呼びかける。最後の階段を登り切ったところで、気づいた。
ああ、ここは物置部屋だ。
階下とは違い、雑多に置かれた段ボールや雑誌、毛布が積み重なり、寝床のようなスペースが広がっていた。
そして、部屋の奥にはひと際目を引く、大きな丸い窓があった。初めて足を踏み入れる場所だという事実が頭から抜けてしまったかのように、自然と足がそちらに向かっていた。それほどまでに存在感のある素敵な大きな窓だった。そしてその先の景色の美しさに、思わずため息をつく。雨に濡れ冷えた指先で、窓をなぞるように手をかけた。窓枠は大きな木枠でできていて、人が腰かける高さになっている。窓からは、先ほど歩いていた道路を挟んで、一面の海が見えた。
「綺麗…」
恍惚とした声が漏れる。晴れ間に雨がしとしとと零れ、反射できらきらと光っている。海は広大で、地平線がどこまでも続いている。窓からの景色も見事だが、この空間自体がノスタルジックな面影を残し、称賛に値する場であると感じた。まるで秘密の隠れ家みたいだと、顏がにやけたところで我に返る。
周りを見渡すと、雑多に置かれた毛布、机に、マグカップ…。一見物置部屋のように感じたが、よく観察すると人が生活している気配があった。もし誰かの部屋だとしたら…〝不法侵入〟という文字が頭によぎる。早く一階に下りようと踵を返した瞬間、何かが足にぶつかった。
木製のイーゼルの、脚だった。
足元から目線を上げると、イーゼルには白い布で覆われた絵が立てかけられていた。絵を学んでいる者の端くれとして好奇心が顔を表す。思わず布を少しずらしてみた。
その瞬間、背筋が凍りついた。
「何、これ…」
その時、階下から軽快な鈴の音と足音が聞こえてきた。誰かが店内に入ってきたようだ。思わず体が硬直する。慌てて布をもとの位置に戻した。足音に続いて荷物を置くような音がしたので、観念し、螺旋階段を一段ずつ下りていく。少しずつ見える、人の姿。カウンターで荷物を下ろしている人物は、緑がかった銀の髪色をしていた。髪から落ちる雫がぽたぽたと足元を濡らしている。階段を降りてくる音に気付いたのか、突然、青年が振り向き驚きの声を上げた。
「わっあんた誰!」
その言葉に反応し体が強張る。なんとか勇気を振り絞り、口を開いた。
「あ、あたしは、客です…」
消え入るような声で、ぽつりと呟いた。青年は思わず眉根を寄せた。
「え、客?お客さんがなんで二階の店長の部屋にいるわけ?」
やはり二階は物置部屋ではなく誰かの部屋なのだ。勝手に人の部屋に押し入ったという事実に申し訳なさと焦りが募る。
「怪しいな~?」
青年の発言と探るような眼差しに、背中に嫌な汗が流れる。咄嗟に口を開いた。
「あの、あたし、雨が降ってきて、慌てて店内に入ったら、誰もいなくて…。店員さんを探して、つい…」
もごもごと口を動かしながら目線を上げると、涼しげな切れ長の目をした、背の高い青年がこちらを見下ろしていた。彼も通り雨にやられたのか、白いTシャツが湿って胸元に張りついている。深く青いくたびれたジーンズは、元の色を失っているようだ。
青年は、唐突に頭を左右に振り水滴を周りに飛ばすと、正面を向いた。