7-12 知られざる事実
◇
「まっ、待ってください九我さんっ」
顔を背け、必死にこの危機から逃れようとする私。
すると九我さんはくすくすと笑って私の髪の毛を撫でてきた。
「大丈夫だ。今からもう一度、君に術をかけてあげる。そうすれば君は、僕のことを天堂だと錯覚する。好きな男に抱かれるなら悪い気はしないだろう?」
「わっ、私は別に天堂さんのことをすっすすす好きなわけでは!」
「……へえ?」
「そ、それに天堂さんは……私の気持ちを無視して契約を進めたり、押し倒すような……そんな人じゃないと思ってます」
「……」
「だから……その、いくら術をかけられても、私はやっぱり、違和感を感じると思いますし、騙されないと思います」
出会ってから今日まで、なんだかんだ言いながらも絶えず私を見守ってきてくれた天堂さんの優しさを思い返しながら正直にそう告げると、九我さんは束の間、押し黙った。
「……そう」
やがて――。
「あの男のこと、ずいぶん信用してるんだね」
ポツンと落とされた呟きは、すうっと背筋が凍るような、ひんやりとした声色を纏っていた。
「……っ!」
次の瞬間、くいと顎を掬われ、目と目が合う。
近い、逃げられない。そんな焦りをこぼしている間もなく、再び九我さんが言葉を紡いだ。
「一つ、いいことを教えてあげようか」
「い、いいこと……?」
「君は以前に〝孤児〟だと言っていたね?」
不意打ちで問われ、目を瞬く。
確かに零番街で、あるいは零番街から戻ってきた後の医務室で、彼に自分が孤児である旨を話した記憶がある。戸惑いながらも小さく頷いて見せると、彼は目を細めながらその先を続けた。
「でもそれは違う」
「え……?」
「君の両親は殺されたんだ。特に父親の方は……約十八年前の天堂センセイに、ね」
衝撃の言葉が胸を貫き、双眸を大きく見開く。
想像もしていなかったその言葉に動揺で目は泳ぎ、不自然に心拍数が上がっていくのが自分でもわかる。
「う、嘘です……そんな」
――声が震えた。
言いながらも心のどこかに妙なざわつきを覚える。
初めて天堂さんに出会った時に感じた既視感覚。
夢と思しき記憶の中で、名を呼ばれた時の不思議な感覚――。
どこで会ったのかと聞かれればそれは不確かで感覚的なものだとしか言いようがないのだけれど、確かに私は、天堂さんとは初対面ではないような気がしていた。
もちろんそれは、ただの気のせいなのかもしれない。でももしも万が一、本当に私と天堂さんが過去にどこかで会っていたとして、そこに私の本当の両親が何らかの形で絡んでいたとしたら……。
今、九我さんの口から飛び出した衝撃的な言葉は、あながち否定できない可能性の一つとして受け止められるのではないだろうか。
困惑するように九我さんを見やれば、彼はふっと口元を緩めた。
「嘘じゃないさ。僕にはね、触れた相手の記憶を読み取る力があるんだ。もちろん、相手によってはガードされることもあるし、読み取れたとしても断片的な映像で何を意味しているのかよくわからないこともある。何が視えるかはそれぞれだから、本人には身に覚えのない胎児や乳児レベルの記憶が引き起こされる場合も稀にあって……君の場合が、まさにそれだった」
「……っ」
「初めて君と握手を交わした時、僕は、確かに君の中に潜む不思議な力の存在と、君の父親と思しき男が、鬼に――それも次期頭領である天堂要に、殺される場面を読み取った。それから気になって君のことを僕なりに調べて……それで、君が『天女の恩恵』持ちである可能性に辿り着いたんだ」
「……」
「零番街に同行したのは他でもない。それを確かめるため、君に近づくには最適な手段だったといえるし、多少のトラブルはあったものの、結果として君の力を目の当たりにすることができた」
「……」
「その後、天堂とサシで取引を交わすこともできたし……何より、君の父親殺しの件についても、本人の確認がとれてる」
「う、嘘……」
「彼はその事実を、君にだけは知られたくなかったみたいだけどね。彼にはもう将来もないし、詳細が気になるようなら僕の口から話してもいいけど……どうする?」
私の心を打ち砕くように、ゆっくりと甘い声色でそう囁きかけてくる九我さんに、私は何も言えず唇を噛み締める。
――天堂さんが、私の本当のお父さんを……殺した?
揺れる心。這い上がってくる不安と疑心暗鬼する気持ち。
噛み締めた唇が震えて、しばらくは何も言葉が紡げなかったけど、でも――。
〝俺の気が変わらぬうちにとっとといけ〟
〝あの力は金輪際俺の居ぬところで使うなよ〟
〝あれだけ忠告したというのにお前という奴は……〟
「……」
――たとえそれが、揺るぎのない真実だったとしても。
「私は……」
「……うん?」
〝『番』を守るのは、当然の務めだ――〟
「私は、天堂さんが真実を告げてくれるまで待ちます」
本人の口からそれを聞くまでは、彼を信じていたいから。
「……」
「だから……今は何を言われても、それを信じることはできません。せっかく教えていただいたのに、ごめんなさい」
溢れそうになる不安を必死に押し戻しながら、精一杯気丈な声でそう告げると、九我さんは心なしか口惜しそうに目を伏せた。
やがて再びこちらに向けられた眼差しは、様々な感情を捨て去った後であるかのように、冷血で、非情で、どこか切なげな瞳だった。
「そう……」
「だから、その、いくらこんなことをしても私は……、……っ」
――刹那、九我さんの瞳に囚われ、全身に電流が走ったかのような感覚が迸る。
「本当に……嫉妬するなあ」
「……う」
「そこまで君が彼に心酔してるっていうなら……もう回りくどいことはやめよう」
金縛りにあったように、再び動かなくなる体。
くすくすと笑う九我さんは、私の髪の毛を指先で弄びながら続ける。
「今から君に、僕のことしか見えなくなる妖術をかけてあげる」
「……っ」
「何もかも忘れて、僕に身を委ねていればそれでいい。番契約さえ終われば、いずれ術が解けても、自然と君の心は僕に向かうようになる」
「……だ、だ、め……」
「大丈夫。こう見えても僕は、案外君のことを気に入っているんだ。悪いようにはしない。……ああ、そうだ。気になるなら、君を知る幽世の連中にも同じように術をかけてあげる。そうすれば、みんな僕たちを祝福する」
「……っ」
「化け猫の玉己だけじゃない、きゃんきゃんうるさい犬神も、君と特別仲が良さそうな雪女君も、幽霊の彼女も、座敷童子や河童、食堂の女職員にも。天堂だけは悔しがるだろうけど……でも、それでいい」
九我さんの指から、私の髪の毛がするりとこぼれ落ちる。
落ちた髪の毛を掬う代わりに伸ばされた長い指は、私の頬をそっと捕らえた。
「こんなくだらない抗争にはもうカタをつけて、里で……子を成しながら、二人で静かに暮らそう」
優しく囁かれた言葉は、〝求愛〟よりも〝切願〟しているようで――。
「大丈夫だ……君が僕を愛してくれなくても、僕は君を、生涯愛して大切にしてあげるから」
その瞳はまるで、孤独の中で救いを求めているようだった。
「……く、が……さ……」
「だから……もう、不毛なやり取りは終わりだ。君の全てを、僕に――」
琥珀色の瞳が刹那、妖しげな光を纏い、かち合った眼から熱く迸る妖気のようなものが私の中に沈むように入ってくる。
「……!(しまっ……)」
しまった、と、脳内で警鐘を鳴らすより早く、ぐるぐる回る世界。
中心に映る九我さんだけが鮮明に網膜に焼き付いて、再び頭の中にふわふわと甘く、今にも思考回路が砕けそうな不思議な感覚が充満し始める。
「……」
「そう。いい子だ……」
夢のような心地。九我さんの美しい妖艶な表情を、とろんとした目で見つめる。
二人の距離が縮まり、吸い寄せられるように目を閉じれば彼の甘い吐息が頬にかかり、優しく触れかかる唇――。
「……っ!」
――だが。唇が重なる寸前、二人の間に、両者を引き裂くような大きな閃光がバチリと走った。
「……!」
先に身を退いた九我さんから、一歩出遅れてハッとする私。
夢から覚めたような感覚。先ほどと同様、彼の集中力が途切れたせいで体や思考の自由が戻ったのだろう。慌てて口元を押さえ、どっと吹き出る汗を額に滲ませる。
「な……」
「(び、びっくりした……)」
自分が九我さんの蠱惑術に呑まれそうになったこともそうだが、何より、今、二人の間に雷でも落ちたかのような閃光が走ったことに、激しい動揺を覚えずにはいられなかった。
「い、今のは……」
もちろん、私自身が何かしたわけではない。
でも、妙に自分の片手の甲がじんじん熱くて、引き寄せられるように熱の宿る部分を見やると。
「天堂家の家紋――」
「え?」
「天堂の仕業か……」
唇をわなわなと震わせながら、そう呟く九我さん。
そういえば確かに、どこかで見たことのある紋様が、私の手の甲――これはまぎれもなく以前、私が天堂さんに吸われた場所だ――にくっきりと浮かんでいたのだった。