7-10 甘い罠
◇
(うう、どうしてこんなことに……)
十五畳はゆうにあるだろう豪華な和室の片隅で、硬く絞った衣類を宿側に用意してもらった衝立に並べて干していた私は、深く項垂れていた。
(せめてドライヤーがあれば洋服を乾かせるんだけど……このお宿には置いてないみたいだし、困ったなぁ)
現在湯を浴びている天堂さんは室内におらず、ほんのりとした行燈の灯る薄暗い室内には、すでに湯浴びを終え浴衣姿で彼の帰りを待つ私しかいない。
「……」
やわらかく、幻想的な雰囲気もさることながら、ちらりと視線を投げると、室内の中央には二つの布団がぴったり並んで敷かれている。
(……さすがにこれは。今から女将さんにお願いして別々の部屋に移動させてもらうか、雨があがったら早めにここを出よう……うん)
甘い空気を醸し出しているお布団から赤面する顔を逸らし、そんな薄情なことを考える私。そわそわしながら開け放たれた障子の先、窓の外を見やるが……先ほどまでのお天気雨はどこへやら、機嫌を悪くしたように再び闇色に染まる空と強い雨足に、後者の期待は叶わないだろうと落胆する。
かくなるうえは天堂さんが戻ってくるまでに女将さんに相談するのがいいかもしれない。
そう思って踏み台にしていた丸椅子から急いで降りようとしたところ、
「……わっ!」
うっかり足を滑らせ、あわや地面にずり落ちそうになった……――のだが。
「!」
「何してる」
「て、天堂さん……!」
部屋に戻ってきた湯上がりの天堂さんに、見事にキャッチされてしまった。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、
(ち、近い……)
後ろから抱きしめられているような形になってしまい、驚きやら焦りやらで心臓が飛び跳ねる。
「すっ、すみません、降りようとしたら、足を滑らせてしまって」
「干し物か。それぐらい俺がやる」
「あ、いえっ、そ、その、もう終わりましたので……」
「そうか」
「……」
「……?」
「えっと。体、放してもらっても……」
おずおずと告げる。不可抗力とはいえあまりにも距離が近くて天堂さんの体温がダイレクトに伝わってきてしまうし、耳にかかる息がくすぐったくて、なんだか落ち着かない気持ちになってしまう。
(ど、どどどどうしよう。顔が熱い……)
俯いて赤面する私を見て、天堂さんは何かを思うように私の耳元に唇を寄せる。
「そんな反応されると余計放したくなくなる」
「……!」
耳元で意地悪く囁かれ、抱きしめられていた腕にギュッと力がこもる。動揺のあまり口をぱくぱくさせていると、天堂さんはくつくつ笑って「なんてな」と、そっと私の体を手放した。
「冗談だ」
「……っ」
意地の悪い冗談すぎて笑えなかったのはもちろん、でも、これ幸いとばかりにせかせかと窓際まで移動し、乱れる心音を整える。
「うう、天堂さんの冗談は冗談に聞こえないんですってば……!」
精一杯のクレームを送ってみたけれど、当の本人はどこ吹く風。
なんとか冷静さを保つよう必死に深呼吸し、激しい動悸を落ち着かせてみたものの……ハッとした。
(ああ、しまった。入り口が……)
完全に逃げるタイミングを失ってしまったうえ、むしろ入り口から一番遠い場所に移動してしまった。
(まずい……)
そもそもいくらこの部屋の中を逃げ惑おうともここは密室。これはもう、いざとなったら窓をつきやぶって外に出るしか……なんて、緊張のあまり意味のわからない逃走計画を練っていたところ、ぎしりと畳の軋む音がして、窓辺に佇む私の隣に天堂さんが立った。
「……っ」
そろりと見上げれば、ちょっと不服そうな顔をしている。
「そんなに俺と二人きりになるのが嫌か?」
「い、いえ、嫌というわけではっ!」
「なら、もう逃げるな」
「(う……)」
後ろに一歩下がろうとした私の手首を掴み、距離が開くのを阻止する天堂さん。
ただでさえ色気のある容貌をしているというのに、肌けた浴衣に濡れ髪という究極のコンボで迫られてしまっては、これはもう素直にドキドキせざるを得ない。
「ご、ごめんなさい……」
「……」
赤らんだ顔を見られるのが恥ずかしくて、俯いたままそう呟くと、
「俺が……怖いか?」
まるで〝鬼〟のものとは思えぬほど、柔らかくて優しい声が降ってくる。
「……。いえ……」
「……」
「そんなことは……。むしろ、今日一日ご一緒して、意外な一面を知れて驚いていたところっていうか……」
「意外?」
「はい。貴方はもっと冷たくて、無慈悲で、他人に興味がないようなひとなのかな、と思ってたけど、全然そうじゃなかったんだなって」
「……。別に他人に興味を示したつもりはないが」
「そうでしょうか? 意外と子ども好きなのかなって思いましたけど」
「……。別に……好きじゃない」
「そうですかね……? 好きじゃなかったら、あんなに長い時間、子どもたちと遊んでいられないと思いますよ」
「……。別に……お前の手前、仕方なく付き合ってやってただけだ」
「ふふっ。そうであっても子どもたちは心から喜んでいましたし、結局、なんだかんだで付き合ってくれちゃうあたりに優しさが滲み出ていたというか……そういうのが、すごく新鮮というか、意外でした」
「……」
照れを隠すように、むきになって抵抗してくる天堂さんが面白くて、思わず笑ってしまった。
すると彼は、困ったような、どこか居心地が悪そうな、そんな表情でガシガシと頭を掻きつつ、やがて長い息を吐き出しながら、ポツンといった。
「……買い被りすぎだ。俺たち〝上級〟には『優しさ』など必要ない。あっても負担になるだけだ」
「そういうものなんですか?」
「ああ。だから俺には『優しさ』など期待するな。後で泣きを見ても知らんぞ」
「……」
「……なんだ?」
「あ、いえ。そうやって警告してくれてる時点で、すでに充分優しい人なのかなと」
「……」
「だってほら、本当に冷たい人なら何も言わずに騙して傷つけて平気な顔をしてるものなんじゃないのかなって思っ……」
珍しく彼があまり反論できずにいるようだったので、調子に乗って率直な気持ちを述べていると、不意に掴まれていた右手をグッと引かれ、よろけたところを掻っ攫うように反対の手で腰を引き寄せられ、あれよあれよと体を反転させられて窓際の壁にぽすんと押しつけられてしまった。
「……っ⁉︎」
壁と天堂さんに挟まれ、身動きが取れなくなる。
おたおたする間もなく目の前が翳り、視線を上げれば天堂さんが真剣な眼差しでこちらを見下ろしていた。
「て、天堂さん……?」
「買い被るなと言ったばかりだ。あやかしってのはお前が思ってるほど優しい生き物じゃない」
「……っ」
諭す、というよりは戒めるような。
そんな鋭い視線が私を捕えていて、背筋がぞくりとする。
「で、でも……」
「言っただろ? 俺は、隙あらばお前をモノにしようとしていると。そのためならなんだってする。ガキの世話だろうが、下級相手に鬼ごっこの真似事だろうが、行きずりの宿に悪意を持ってお前を連れ込もうが、お前を騙して純情を踏みにじろうが……傷つけようが、冷たいと思われようが、関係ない」
彼の長い腕が、伸びてくる。
逃げなくちゃと思うのに、その美しく魅惑的な瞳に見つめられていると全身が熱くなって、迸るような眩暈がして、頭の中が真っ白になっていくようで――。
「俺は、どんな卑怯な手を使ってでも……お前を、俺の番にするつもりだ」
――体が、動かなくなる。
「天、堂さ……」
「例えそれが争いの火種となり、学び舎や、この幽世に破滅をもたらすことになろうとも……もう構わない。俺は……お前さえいれば、それでいい」
この名もなき感情に抗おうと必死に目を逸らして自分を保とうとするけれど、片手で右頬を掬われ、嬲るように見つめられては、思うように視線も逸らせない。
気がつけば、目と鼻の先まで彼の艶やかな唇が迫っている。
「……っ」
「だから、お前は……」
必死に抗おうとしているのに、蜜のように甘い毒牙から抜け出せず、朦朧と見つめ返すしかできない私を見て、彼は艶やかな笑みを落とした。
「もう諦めて、大人しく我が物になれ」
(だ、め……)
彼の蕩けるような甘い視線が、私の唇に刺さる。
唇を奪われたら最後。きっと、そのまま甘い空気と視線に呑まれ、自分を見失って彼の全てを受け入れてしまうだろう。
こんな形で身を委ねてはいけないと、奪われてはいけないと、自らを律して彼の胸元を突き返そうとしたのだけれど……。
(ああ、だめ。どうしても身体が……動かない)
やはりどう頑張っても身体が動かなくて、近づく唇に、全てを奪われるのを覚悟した……――その時、
「……っ」
――ふわりと、仄かに甘い、優しい白檀の香りが鼻腔を掠める。
「契りを交わそう、琴羽」
間違いない――と、確信を得る私に構わず、まるで忠誠を誓うように紡がれた言葉。
彼が瞳を閉じ、熟れた唇で私の唇を喰もうとした……その隙に、なんとか気力と理性をかき集めて、ぎゅっと目を閉じる。
「だ、め……っ」
そして、迫る彼の胸元を両手でそっと押し返した。
「……っ」
予期せぬ私の行動に面食らい、驚いたようにこちらを見下ろす〝彼〟。
どくどくと乱れる心音。顔を伏せ、彼〟の胸元で小さく深呼吸を繰り返しながら、迷い、惑い、悩み、なんとか声にしようとしては言葉に詰まりながらも……再び彼の毒牙にかかる前に、彼の甘い罠に立ち向かうべく、私なりの〝答え〟を口にする。
「だめです……九我さん」
「……!」
「私は、貴方と契りを交わすことはできません」
意を決して繰り出した私のその一言に――。
天堂さんは……いや、天堂さんに化けていた九我さんは、目を見開いて私を見たのだった。