6-27 これが噂のじょすかい(4)
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「なんっ……なん、で……」
目の前にいる女性が自分の恩人であり精神的支柱でもあったヤエさんだと知り、驚愕の表情で立ち竦む河太郎くん。
ヤエさんは優しく目を細めると、手元にあった小皿にお手製の海苔巻きを取り分けながら、その質問に答える。
「なんでって……ほれ、アタシが生きてた頃のお前さん、急に目の前からいなくなっちまっただろう? ずいぶん心配してあちこち探し回ったんだけども、それから間もなく、アタシも寿命がきてぽっくり逝っちまってねえ……」
「……」
「さすがに『あの世』じゃどうにもできないかと諦めてたんだけど、ふと、この学び舎の存在を知ってさ。幽世と現世を行き来できる妖怪で、勉強好きのお前さんなら、ひょっとしたらいつかこの学び舎に来る日が来るかもしれないって思って……ずっと待ってたんだよ」
ふふふと微笑みながら、盛り付けたカッパ巻きを河太郎くんの前に差し出すヤエさん。
衝撃のあまりか、なおも河太郎くんは動かない。翠色の美しい瞳を大きく見開いて、口をぱくぱくさせて、何かを言いたそうにしているけれど言葉が出てこない様子。
そんな弟子を……いや、我が子のように大切にしていた河太郎くんを、微笑みながら見守るヤエさんは、心底感激するように呟く。
「まあ、本当は悲願だった教師になって待っていられたらもっとよかったんだけどねえ。さすがに無資格じゃそうもいかなかったし、幽霊ってのは色々制限があって食堂の職員になるのも一苦労だったんだ。研修受けたり、方言直したりね。でも……そんなアタシ以上に、お前さんは頑張ったんだねえ」
「……」
「あの頃は上手くいかないとすぐ癇癪起こしてたくらいなのに。……やっぱりお前さんは、アタシの自慢の教え子だよ」
――かつて河太郎くんは言っていた。
幼少期、スラム地区へ捨てられ、浮浪児として偸盗や騙りで食い繋いできたやさぐれ者の自分は、礼儀作法や一般常識はおろか、文字の読み書きすらもできないどうしようもないあやかしだった、と。
「河太郎?」
「……」
そんな彼を変えてくれたのがヤエさんで。
彼女のために苦手だった勉強にも必死に取り組んで。
いつの間にか一族の期待と将来を一身に背負わされて。
仲間に疎まれ、嫌がらせをされ、邪魔者扱いされながらも、もう一度、彼女に会うために歯を食いしばって闘い続け、死に物狂いでもぎ取った合格と特待生。
「…………っ」
「⁉︎ どうしたね河太郎⁉︎」
――そんな河太郎くんの努力が、ようやく報われた瞬間だったんだと思う。
河太郎くんは口をへの字に曲げると、澄んだ翠色の瞳からぼろぼろと大粒の涙をこぼし、脱力するようにその場にへたり込む。
「なんだよもう、マジかよォォォ……」
「あっやぁ⁉︎ なんたらまだ泣いでらの、どごが痛えのが⁇ ……ああ、おめはん匂いにも敏感だったがらな、飯さすっけがったらおもっさげね。んだどもそったら泣ぐどは思わながっ――」
「いやだから何言ってっかわかんねーし、見た目若返りすぎてて調子狂うし、そもそも俺、『勉強好き』なんかじゃねえし」
「なぬ⁉︎」
「しかもその首につけてる緑色のやつ」
「ああ、この緑石のネッグレスが? おめさんがくれだ石っころだ。お洒落だべ?」
「いやそれどう見ても石っころじゃねえし『河童の鱗』だし、『高く売れるから』って紙に書いて置いてきたはずなのに、なんでそんなとこにつけてんだよ⁉︎」
「むむ。そうだったが? 気づがなんだ……。紙っきれはごみかと思って捨てちまったんかもしれんねえ」
「捨てちまったかもってオイィィィ、せっかく婆さんの余生分はあっただろう高額資金ンンン」
「んはは。抜がせ。おめはんに心配されるほどおらも落ぢぶれでながったし、仮に紙っ切れを読んでらったどしても、おめはんから貰った大切なモン売るわげねぁーだべ。んだがらいいんだよネックレスで。おらの宝モンだ」
「……」
「ほれ。いいからさっさと食え。好ぎだべ、かっぱ巻き」
ヤエさんはそう言って、河太郎くんからの苦情を吹き飛ばすようからからと笑った。
その笑顔を眩しそうに見つめた河太郎くんは、もはや返す言葉なく唇をかみしめ……腕でごしごしと涙を拭う。そして――。
「んだよもう、せっかく入学辞退の踏ん切りつけたと思ったのに……。これじゃやめるにやめられなくなっちまったじゃねえか……」
苦笑まじりにそう独り言ちて。彼は差し出されたカッパ巻きを口に放り込むと味わうように咀嚼し、やがてその顔いっぱいに華やぐような笑みを灯す。
――それはそれは、長年蕾だった桜が、鮮やかに花開いたかのような笑顔だった。
きっと彼好みの酢の濃度だったのだろう。ヤエさんも嬉しそうに微笑んでいる。
再会を喜ぶ二人の姿は、まるで本物の親子も同然に見えた。
(ああ、本当によかった)
生き別れて長らく、遠回りしながらも、この幽世という夢幻の地で再び対面を果たすことができた二人。
ここならば誰に気を使うこともない。時間はたっぷりある。いくらでもかつての母と子のような温かい日々を取り戻すことができるだろう。
河太郎くんが幼子のように無邪気な笑顔を浮かべていて、私自身も心底安堵したというか、ようやく胸のつかえを晴らせたような気持ちになれた。