6-22 健太郎と狗神の呪いと愛犬リュウ(6)*
※ 『健太郎と狗神の呪いと愛犬リュウ(1)〜(7)*』は『犬飼視点』のお話しとなります。
◆◆◆
いまだ醒めない夢でも見ているかのように、長らくその場で呆然と立ち尽くす俺。
「俺、は……」
重たい唇をこじ開けてようやく言葉らしき声を発すれば、取り返しのつかないことをしてしまったという悔恨が津波のように押し寄せる。
(俺は……なんてことを……)
ようやく解けた、笑顔の理由――。
『あははっ。くすぐったいってリュウ……!』
『リュウ、おやすみ』
『ごめん……ごめんな……リュウ……』
目を瞑れば、記憶の底から蘇ってくるアイツの優しい呼び声に、全身が砕け散りそうなほどの罪悪感がわいてくる。
しかし、いくら後悔しようとももう健太郎はいない。
俯き、自責の念に苛まれるよう強く唇を噛み締めていると、見かねたように玉己が口を開いた。
「さすがにこれで、信じただろ」
「……」
「記憶を失くしてるお前にとっちゃ寝耳に水ですぐには受け入れられない事実かもしんねーけど……でも、ケンタロウはお前のことを家族以上に大切にしてた。それだけは事実なんだよ」
止めを刺すような玉己の一言が、抉るように俺のど真ん中に突き刺さる。
――異論はない。
確かに日記の中の……精神崩壊する前の本来のアイツは、泣き虫で臆病でどん臭くて犬がいないと何もできない弱虫な人間だったけれど、でも、誰よりも純粋で真面目で努力家で思いやりがあって動物愛に溢れた優しい奴でもあった。
むしろ、無知で浅はかで短絡的で……孤独なアイツの本心に耳を傾けて寄り添おうともせず、恩を仇で返すよう身勝手で傲慢で非道な振る舞いをしたのは俺の方だ。
天に裁かれるべきは、本来であれば俺の方だったのだ。
「……ああ、そうだな」
自分の過ちを認めたとき、先ほどまでの剣幕はどこへやら、自然と込み上げてくる苦笑が口の端からこぼれ落ちた。
「『そうだな』って……おい、やけに素直すぎて調子狂うじゃねえか」
腑抜けた俺の返答に、玉己はしばらく隣にいる花染と顔を見合わせて決まりが悪そうにしていたのだが……。
「……」
「……? アイボー?」
押し黙る俺の異変に気が付いたのか、怪訝そうな表情でこちらを覗き込んでくる玉己。
構わずに俺は、力の籠らない腕を動かしズボンのポケットへ移動する。
そこには確かに、予備として忍ばせておいた例の硬い小瓶の感触があった。
〝……なあ、相棒。見ろよこれ〟
〝お前の血とオレの術で作り上げた秘術だ。封を解けば世界は忽ち奇病に覆われて、人間なんて一人残らずあっという間に死滅する。頑丈なあやかしやお前みたいな神でさえ、一口でも口にすれば一発ノックアウトの激毒シロモンだ〟
得意満面な表情で語る健太郎の横顔が脳裏にチラつき、今となってはどこか微笑ましく感じるような、あるいは過去のアイツに縋るような気持ちでしっかりそれを握りしめる。
「……」
――すでに心は決まっていた。
「犬飼くん……大丈夫?」
「おうおうアイボー。いくら衝撃の事実だったからって辛気くせえ顔しすぎだろ。むっつり黙り込んでねーで、なんか言いてー事あんならはっきり言えにゃ」
(言いたいこと……か)
(……んなもん、決まってんじゃねえか)
一言でいいから、詫びたい。
一目でいいからアイツに会って、悪かったって土下座して、アイツの気が済むまで罵って蔑んで戒めてほしい。
「……よ……」
そんな都合のいい願い、奈落にいる健太郎には届くはずもないけれど、でも……。
「あん?」
方法がないわけでもない。
俺は握りしめていた小瓶をポケットの中からそっと取り出すと、静かに呼吸を整えてから、目の前の二人に向かって決別の笑みを送る。
「今さら知ったって……もう遅ぇんだよ……」
「……!」
独りごちるように呟き、意を決して札を引き剥がした。
「ちょ、まっ、花染、離れて息止めてろッッ‼︎」
「え? きゃっ」
それを見た玉己は血相を変えてすぐさまその場から飛び出し、俺が持つ小瓶に向かって腕を伸ばしてきたが、すでに俺は固く閉ざされていた小瓶の蓋を開け放ち、素早く自身の口元まで引き寄せていた。
「――⁉︎」
中身をぶちまけるのではなく、瓶口部を自分の『口元』に宛てがった俺を見て、目を見開く玉己。
迷いはなかった。
人間にとって、死を招く奇病の元凶ともなるこの秘術。しかしそれは、使いようによっては俺たちあやかしにとっても一発ノックアウトの激毒になる……と、かつて健太郎は言っていた。
だから――。
「おいバカやめろアイボー‼︎」
「!」
その言葉を信じて、瓶を傾けて一気に中身を呷る俺。
地獄の壁に遮られて、もう二度とアイツに会うことが叶わないというのなら、俺自身が奈落へ落ちればいい。
そうすればきっと、健太郎に会えるはずだから。
「……っ」
躊躇なく瓶の中身を体内に流し込むと、だらりと腕を垂らし、小瓶をその場へ取り落とす。
「もっ、もしかして今のは……」
「バカ! 危険だからお前は離れてろ花染! っつうかおい、何してんだよアイボー‼︎ 中身、全部のんじまったじゃねえか! 吐け、吐き出せよッッ」
玉己に激しく体を揺さぶられながらも、ゆっくりと目を閉じて、全身に毒が回るのを待つ。
幽世にいる限り、死に至ることはない。だが、死も同然な瀕死状態に陥ることはできるし、さすがにそこまで行けば見かねた玉己が、俺の意思を汲み取って然るべき方法――俗に言う『現世送り』ってヤツだ――で、弔ってくれるだろうとそう信じていた。
「……っ、」
――やがて、毒を滑らせた喉元が、食道が、胃の粘膜が、ひりひりと焦げ付くような熱さを伴って火照り出してきた。
ようやく毒が効き始めてきたのか。一寸先は悶えるような苦しみか、想像を絶するような激痛か。それはわからないし、今まで『死』とは無縁に過ごしてきた自分がそれを迎えることになるかもしれないだなんてすぐには実感がわかないけれど、でも。
不思議と怖くはなかった。
もう一度だけ。もう一度だけでいいから……健太郎に会って、傍らに寄り添いたい。
ただそれだけの思いで、突き上げるような苦しみ、あるいは全身が砕け散るような痛みや身が竦むほどの痺れに見舞われるのを待ち続けたのだが……。
(……ん、で……)
いくら待っても、それ以上は一向に訪れない変化。
むしろ『死』が訪れるどころか、全身の血が熱く滾り、逆に力が漲ってくるような感覚があるのは気のせいだろうか――?
自身を襲う違和感がどうしても拭えず、目の前に両掌を掲げて恐る恐る開いてみる。
(な、んで……)
するとやはり、そこには失っていたはずの力――妖力が、溢れんばかりに宿っていて、目を疑った。
「なんでだよ……」
術者である健太郎を欠き、俺の妖力はもはや神とは名乗れないレベルにまで衰えていたはずなのに。それなのになぜ、失ったはずの妖力が今、湯水のように湧き出しているのか。