6-19 健太郎と狗神の呪いと愛犬リュウ(3)*
※ 『健太郎と狗神の呪いと愛犬リュウ(1)〜(7)*』は『犬飼視点』のお話しとなります。
◆◆◆
(ここは……)
(日記帳の中か?)
目の前にいる少年をまじまじと見つめてすぐ、俺はそいつが小学生・高学年時代の健太郎であることを直感した。
(あれは……間違いない、健太郎だ)
右目の下についた泣きぼくろ。柔らかい癖っ毛の黒髪。ややゆったりとした喋り方。それからなにより、俺が知ってる頃よりだいぶふくよかな印象ではあるが、あいつらしい面影がある。
これが付喪神の力かと感心する間もなく、再び脳内に健太郎の声と視覚化した文字が流れてきた。
〝ぼくの家族には、ひとり一匹、犬のアイボウがいる〟
〝それが犬飼家のきまりで、リュウは、父ちゃんがシンセキからもらってきた犬だ〟
〝白くて、ふわふわ。ぼくのジマンのアイボウ〟
〝だけど、学校の奴らにいうとおまえの家はヘンだってバカにされるから、リュウのことはみんなにヒミツにしておこうとおもう〟
たどたどしいアイツの声が頭の中に木霊する。
目の前では小学生時代の健太郎が子犬時代の俺と仲睦まじく幸せそうに戯れていて、なんとも言えない気持ちになった。
(これが本当にあの健太郎か……?)
(俺が知ってるアイツと大違いだぞ)
俺の知る健太郎は絵に描いたような極悪人面の神主だ。だからどうしたって目の前の健太郎に違和感は拭えないが、どんな悪人にも純粋無垢な少年時代ぐらい存在していてもまあ不思議はないだろう。
きっとこの頃はまだ悪に染まっていなかっただけのこと。いずれ腐り切った本性が現れるに違いないと、穿った見方で見知らぬ過去を眺めていると……やがて再び視界が白み、パラパラと紙の捲れる音が脳裏を掠める。
ほどなくして、見慣れた神社の境内が眼前に広がった。
***
〝××××年4月23日〟
〝放課後、学校の奴らに呼び出された〟
〝いつも僕んちの家業をバカにしてくる同級生たちだ〟
〝今日もまた『おまえんちはペテンだ』とか、『犬殺し一家だ』とか言いがかりをつけられて、それで……〟
日付から計算すると、俺が健太郎の犬になってから約二年後、健太郎が中学に上がった頃だろう。
視界いっぱいに広がる境内の片隅には、身の丈に合っていないブカブカな制服を纏った健太郎が膝を抱えて泣きじゃくっており、傍らにはそんな健太郎を慰めようと懸命に寄り添う犬の姿と、書きかけの日記帳が転がっている。
『ごめん、リュウ……。僕、泣いてばっかだよな。こんなんだからいつまで経っても友達ができないし、弱虫の泣き虫だってみんなに笑われるんだよな』
『くうん』
『でもさ、聞いてよ……。僕ね、同級生の奴らがあんまりにもしつこいから、父さんに〝犬殺しってどういうこと?〟って聞いちゃったんだ……。そしたら父さん、〝犬神使いになるためには、定められた相棒を生贄として差し出し、新たに式神として契約を結び魂を再生させる必要がある〟〝それが犬飼家のしきたりであり宿命だ〟……って……』
『……?』
『それってつまり……やっぱり本当に、おまえを殺さなきゃいけないってことなんだよ……。僕、嫌だ……おまえを殺すなんて絶対に嫌だ……。ちくしょう……なんで僕、この家の長男なんかに生まれちゃったんだろう……』
泣きじゃくる健太郎の声が、境内の片隅に寂しく落ちる。
傍らに寄り添う犬は、自分のことだなんてまるでわかっていない様子で健太郎を見上げ、頬をすり寄せて主人の嘆きを慰めた。
『ありがとう……リュウ……』
『くぅん……』
『ぐしっ……僕、決めたよ。しきたりだと神社を継ぐのは二十歳の誕生日って決まってるから、それまでにこんな家、絶対出てってやるんだ……。僕、まだ中学に上がったばっかりだし、お金ないから今すぐは無理だけど……でも、働ける歳になったらすぐにでもおまえを連れて家出して、絶対に逃げきってやるからね……。だからリュウは、なんにも心配しないで。ずっと僕のそばにいてね……』
『ワンっ』
そう呟いて、健太郎は無垢な顔で擦り寄る犬を力いっぱい抱きしめた。
嬉しそうに尻尾を振り、ぺろぺろと健太郎の顔を舐める犬。
(嘘だ……)
(嘘だろ、こんなの……)
――そんな光景を目の当たりにしても、俺はまだ、信じられずにいた。
(犬飼家のしきたり……?)
(そんな話、アイツは一度もしなかった。むしろ『俺は金のために神社を継いだ』とまで豪語してたはずだ)
神は嘘をつかない。それは充分に理解しているが、今、目の前で起きていることをすんなり受け入れられるはずもなく、俺は言い合いれぬ戸惑いと困惑を抱く。
(これはきっと何かの間違いだ)
(いや、仮に……仮にこれが真実だったとしても、今のアイツが二十歳になるまでだいぶ時間があったはず。本当に犬を殺すつもりがなかったってんなら、本気で家を出るなり親とぶつかるなり、いくらでも抵抗ができたはずじゃねえか)
(結果的にそれをせず俺を殺したってことは……結局その程度だったってことだ)
そう結論づけてなんとか自分を保ったが、何事も悪い方へ捉える俺とは正反対に、目の前にいる健太郎は出会った当初から変わらずに犬を優しい眼差しで愛でていて、俺のその根拠のない歪んだ自信は大いに揺らぎはじめていた。
(なあ、健太郎)
(そうだよな……)
(そうだって、言ってくれよ……)
手を伸ばし、その温もりに触れようとも、目の前の健太郎に今の俺の姿が見えることはない。
ぐ、と空を掴んだとき、再び視界が白んだ。
時代と日付が変わる音がする。神社の境内だった景色はやがて犬飼家の屋敷内のものに切り替わり、目の前には高校生ぐらいの健太郎と、着物を着た中年男性が激しく口論する情景が浮かび上がってきた。
***
『健太郎、おまえ……自分が何をしたかわかっているのか!』
『だ、だって父さん、僕は……!』
〝××××年9月29日 高一、秋〟
〝家出に失敗〟
〝父さんと激しい口論になる〟
『だって、じゃない! 犬飼家の嫡男たる者が女々しく言い訳などするな!』
『……っ』
ダン、と音がして、高校生と思しき健太郎が父親に張り飛ばされ、床に転がった。
そばにいた犬は、健太郎の前に立ちはだかり今にも噛み付かんばかりの剣幕で父親を威嚇するものの、相手には有無を言わさない威圧感があり、まるで取り付く島もない。
ただ唸るしかできない犬と、赤く腫れた左頬を押さえ、屈辱的な表情で睨みつける健太郎を見下ろして、健太郎の父親は無下もなく言い放った。
『いいか、健太郎。お前には生まれつき強い霊力がある。神社の後継としては人脈の薄さや精神面の弱さが気になるところだが、由緒正しき狗神使いとしては申し分なく真価を発揮できるだろう。その宿命を甘んじて受け入れ、二度と家出しようなどと浅はかなことは考えるな。その犬、処分されたくなければ……な』
『そんなっっ!待ってよ父さん、僕は狗神使いになんかっっ……』
『諄い!しばらくお前は通学以外外出禁止だ。部屋の外に監視もつける。いいな!』
側から見ていても慈悲のない、ひどく冷ややかな命令と眼差しだった。健太郎の父親は息子とそのペットに少しの情も傾けず、くるりと踵を返してその場を立ち去っていった。
『くそ……くっそおおお……』
当てどころのない憤りをぶちまけるよう、拳で床を殴りつける健太郎。
悔しそうに唇を噛み締め、絶望に浸る健太郎の眦からはボロボロと涙が溢れていて、いかにその家出が未成年の健太郎にとって意を決した反抗だったかを思い知らされたような気がしたし、それを眺めるしかできない俺は、体の中心に鉛が落ちたような重い気持ちに見舞われていた。
(なんだよこれ……)
(聞いてねえよ、こんなの)
嘲るような言葉も、アイツなりに必死に抵抗していた事実を目の当たりにした今では迂闊にこぼすこともできなくて、得も言われぬ複雑な感情が自分の中に広がっていく。
だが、そんな世知辛い光景は――。
〝××××年5月11日〟
〝高二、春〟
〝二度目の家出に失敗する〟
――半年後も。
〝××××年11月21日〟
〝高二、秋〟
〝三度目の家出……また失敗した〟
〝今度こそ上手くいったと思ったのに。父さんに殴られ、リュウが納屋にぶち込まれる〟
〝もういやだ、しにたい〟
――その約一年後も。
〝××××年1月12日〟
〝高三、冬〟
〝また家出に失敗。これで四度目……。僕はどうしようもないクズだ〟
〝このままじゃリュウを殺さなきゃいけなくなる〟
〝いやだ。それだけは絶対にいやだ〟
〝リュウは僕の大切な相棒で、唯一無二の親友なんだ〟
〝絶対に諦めるもんか〟
〝父さんが決めた神職養成所に入るまでに家を出て、もっともっと遠くへ逃げてやる……〟
――さらに高校を卒業目前までも延々と続き、毎度失敗しては絶望のどん底へ突き落とされる健太郎の悲壮感が手に取るように伝わってきた。
(……)
次第に俺は何の悪態も思い浮かばなくなり、悪夢からの離脱を必死に試みる健太郎をただ黙って静観していたのだが、やがて迎えた健太郎の神職養成所入所直前の春――。
***
〝△△××年4月7日〟
〝高校を卒業して約二週間、養成所入所直前。全てを投げ出し、リュウと共に○○県へ移住成功〟
〝やった。やってやったぞ〟
〝僕たちはついに、自由を手に入れたんだ……!〟
――目の前の光景は桜が舞う春、公園にある筒状の遊具の中。立派な青年となり地方まで逃げ果せたと思しき健太郎が、大きく成長した犬と、ゴミのような残飯をつつきあっている。
『ごめんなリュウ。頼るあてもないしお金もないから、しばらくはこんなご飯しか食べさせてあげられないけど……。なんとか就職先を見つけて住む場所も決めるから。もう〝宿命〟なんて言葉に縛られたり怯えたりしないで自由に生きていこうな』
『ワンっ』
『あははっ。くすぐったいってリュウ……!』
仲睦まじく戯れる一人と一匹は、度々腹の虫を鳴らしながらもようやく手に入れた自由を謳歌するよう、身を寄せ合って笑顔を交わす。
この頃の健太郎はややぽっちゃりめだった少年時代に比べ、だいぶほっそりと痩せて(いやヤツれて、か)いたが、俺の知っている健太郎の外見に近くなってきていたし、納得した人生を送り始めたせいか、以前に比べだいぶスッキリとした笑顔を浮かべるようになった気がした。
〝将来のことは不安ばかりだ〟
〝でも……〟
〝家を捨てたこと、後悔はしていない〟
〝僕にとってのリュウは、かけがえのない理解者で、命よりも大事な家族だから〟
〝だから……リュウ。僕、がんばるからね〟
その日を境に、目の前の光景は目まぐるしく移り変わる。
一ヶ月後には健太郎が住み込みのアルバイトを始め、二ヶ月後には低賃金重労働に心折られて泣きじゃくりながらもなんとか持ち堪えている様が走馬灯のように流れ、半年後にはガリガリにやせ細ったアイツが職場の鬼上司にこっぴどくしぼられながらも必死に喰らい付いている様が幾度となく目の前を過ぎり、さらに一年後には……泣き虫だったアイツが、泣き言ひとつ言わず一人前に重労働をこなせるようになっていて、毎晩遅くに家に帰ってきては一つしかない弁当を大きく育った俺と半分に分けて掻き込み、一つしかない薄っぺらい布団で身を寄せ合って眠りについていた。
『リュウ、おやすみ』
『くうん』
肉体的、精神的にはだいぶすり減った一年だったようだが、その反面、その苦難が健太郎を随分逞しく成長させたようで、この頃のアイツは今までに見たことがないぐらい充実した幸せそうな顔で、犬との生活を送っているように俺の目には映っていたのだが……。
(……)
(健太郎、俺は……)
〝△△×○年7月7日〟
――事態は急変する。
〝父さんの狗神が、僕の元へやって来た〟
健太郎の二十歳の誕生日を目前に控えたこの日……過酷な運命に翻弄されるべく、ついに俺たちは人生の岐路に立たされたのだった。