6-17 健太郎と狗神の呪いと愛犬リュウ(1)*
※ 『健太郎と狗神の呪いと愛犬リュウ(1)〜(7)*』は『犬飼視点』のお話しとなります。
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――目を瞑れば、今でもはっきりと思い出すことができる。
噎せ返るような血の匂いの中、骨ばったアイツの首に深く爪を食い込ませる感触。
薄く漏れる苦しそうな呻き声に、今にも途切れそうな細い息遣い。
焼けるように熱く燃える憎悪の念を抱きながら、繰り返し唱えた呪詛の言葉はやがて……巨大な闇となって、死に損ないのアイツを足元から蝕んでいくように呑み込んだ。
『……リュウ……』
そうして、俺が目にしたアイツの最期の表情は……――。
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――幽世・ターミナルステーション・屋上(展望デッキ)。
眼下に広がる無数の駅ホームと、蛍のように柔らかい明かりを灯して発着を繰り返す幽世列車をぼんやりと見つめながら、俺はまた、あの時のことを思い出していた。
(あの時……)
(アイツは、笑っていやがったんだ)
今でも腑に落ちずにいる。最期に見たアイツの表情は、確かに笑っていた。
これから俺に絞め殺されるんだというのに、死に怯えるでもなく、俺の裏切りを嘆くでもなく、命を惜しむようでもなく、はたまた裏切り者の俺を小馬鹿にしたように……でもなく、ひどく穏やかな顔で微笑みながら、安らかに眠るよう死んでいった。
(それまで散々……金だ金だと喚き散らして、狂ったように笑いながら札束数えてたのにな)
アイツを屠った今、いくら考えてもその表情の意味を知ることはできない。だから……あの表情は、笑顔は、呪術の使い過ぎで頭がイカれていただけだろうと、俺はそう結論づけることにしていた。
「……」
ぎり、と奥歯を噛み締め、込み上げる不快感を必死に堪える。
皮肉なものだ。狗神として祭祀される以前の記憶はまるでないのに、ケンタロウの死の間際、その前後のことだけは嫌でも忘れられずにいるだなんて。
(クソ、胸糞ワリィ……)
頭を振り邪念を振り払うと、俺は腹の底でぐつぐつと煮えたぎる憎悪の念を原動力にするよう、凭れていたフェンスから身を剥がした。
(健太郎を殺したこと、後悔はしていない)
(先に裏切ったのはアイツの方だ)
(散々〝相棒〟だの〝パートナー〟だのと都合の良い言葉を並べ立ててその気にさせておいて、蓋を開けてみりゃあ単なる金稼ぎの駒として酷使していただけだなんて……思い出しただけでも反吐が出る)
(俺は、やられたことをやり返したまでだ)
(俺は、玉己ほど優しくない)
(俺は、自分を裏切った人間を絶対に許さない)
(……畜生。玉己だけは、俺の理解者だと思ってたのに……)
とりとめもなく巡る思い。それは次第に胸の中で膨れ上がり、現世行きホームに向かうべく渡り廊下を進む俺の足をより一層早める。
(玉己が俺を裏切ったのは、人間のせいだ)
(花染が玉己を唆したんだ)
(ここのままじゃタマも、ガリ勉も……人間に利用されて、痛い目をみるに決まってる)
(だから……そうなる前に)
(俺がこの手で、皆殺しにしてやる)
(……花染も、現世に住む人間も)
(人間なんてみんな死ねばいい)
その想いを胸に、俺は手の中の小瓶を握りしめる。
それは狗神時代の俺の血に、ケンタロウの術が上乗せされて長らく神社に祀られていたものの一つだ。封印用の札を剥がして蓋を開ければ、長い年月をかけて熟成された〝狗神の秘術〟が解き放たれる。
秘術は治療不可能な『謎の奇病』で、大気に放たれた瞬間、人から人へ伝染し、忽ち世界は病に覆い尽くされて死滅する、と、話には聞いている。
特に現世の満月の夜というのは妖力やこういった呪物の効力が高まると噂されているので、妖力が衰えつつある俺であっても、充分に一人で目標達成できる算段だった。
(せっかくの満月を逃すわけにはいかない。まずは現世の人間に片をつけてから幽世内にいる人間どもを……)
「犬飼!」
「……!」
――頭の中で今夜の計画を再確認しながら、長い渡り廊下を中程まで渡った時のこと。
ふいに、馴染みのある声が俺の鼓膜を掠めた。
(え……?)
(今の……タマの声……?)
そんなはずはないと思いつつも、でも確かにアイツの声が聞こえた気がして辺りを見渡す。
ここは各ホームがある駅舎棟と、展望デッキを結ぶ渡り廊下だ。
高さは十五階程度、渡り廊下の両脇とそれ前後にはターミナルステーション関連施設のエスカレーターやらテラス、渡り廊下などが複雑に交差しており、立体的な確認も必要となるため声の出元を特定するにはしばしの時間を要した。
(あの辺から聞こえた気が……)
俺が当たりをつけたのは、今自分がいる渡り廊下の目の前を、斜めに横断しているエスカレーターの上方部分。
天に昇るような長さがあるそのエスカレーターは、まさに今、俺が向かおうとしていた現世ホーム行きのエスカレーターで、ここからは一旦駅舎棟を経由してからではないと乗り込むことができない。
そんなところから玉己の声が聞こえるはずもないとは思ったが、どうしても気になったため渡り廊下から身を乗り出してエスカレーターの先を覗き込もうとしていると、ダダダダと騒がしい足音が身近に迫ってきて「え」と、漏らす間もなく、クリーム色の物体が軽快に建物と建物の垣根を猫のように飛び越えて、やがて俺の元へシュタッと降りてきた。
「ちょッッッッ⁉︎」
「おいしょっと。おうおうおう見つけたぜアイボー、こんなとこにいやがったのか」
「な、な、な……」
言わずもがな、降ってきたのは玉己だ。それも、身軽な猫の姿ならともかくバリバリ人型の姿でこちら側までダイブするとか、マジで馬鹿なのかコイツ⁉︎
「おいしょっと、じゃねえぞボケ! お前、ここ十五階だぞ⁉︎ 落ちたらどうすんだよ‼︎」
「うるせー。猫の身体能力なめんじゃねー」
「いやいやいや猫は猫でも、お前は今、ほぼ人間の姿なん……」
「た、玉己くーん!」
「!」
おまけにどうやらエスカレーターには例の人間の女……花染もいたようで、突然自分の脇から走り出し、俺がいる渡り廊下まで綱渡をしてきた玉己を見てやや動揺しつつも、でも、負けじとエスカレーターの手すりをよじ登ってこちら側へ飛んでこようとしている。
「……っと、おい! お前は飛ぶにゃ、どう見ても人間には無理だろ! 大人しく上から回ってくるにゃ!」
玉己が慌ててそう難癖を飛ばすと、女はコクンと頷いて手すりから降り、パタパタとエスカレーターを駆け上がっていった。ポカンとしていると、「そこの人間の方〜! エスカレーターでは走らないでください〜!」「ひえっ、す、すみませんっ」と、係員にこっぴどく注意されている声が聞こえてきて、玉己は「アホにゃアイツ」とけらけら笑った。
いや、十五階で綱渡りするお前も充分にアホだ。