6-14 上級あやかしと下級あやかし
突然囁かれたその魔性の一言に、耳を疑うより早く、心臓がばくりと音を立てる。
「え……?」
――い、今なんて……?
言外に尋ねるよう彼を見上げると、九我さんは妖艶に微笑んでから何事もなかったように姿勢を正した。
白檀に似た甘く神秘的な香りがふわりと鼻腔をくすぐり、なんだか急に全身が熱くなる。
(い、いやいやいや……。今のは単なる言葉遊びみたいなものだよね。私ってば、間に受けようとするだなんて自意識過剰すぎるわ……)
どくどくと煩い心音を必死に宥め賺していたところ、私と九我さんのすぐ傍にいた霊華さんが、
「……っと、十字路にあった人影がなくなりましたっ。今がチャンスです! 皆さん、向こう側の通りまで全力で走ってください!」
と、意を決したように合図を送ってきたので、正直かなりドキッとした。
「は、はいっ」
「! わかったわ! 行きましょう!」
「御意」
「うし、んじゃ一気に――」
すぐさま居住まいを正した私たちは、クラウチングスタートでもするかのように物陰から一斉に走り出そうとした……のだが。
『待て、待てよォおおおおおおお』
「なっ⁉︎」
「……っ!」
――どこからともなく聞こえてきた低い声。
足元がぬらりと蠢いたかのように見えたのも束の間、地面から無数の黒い影が飛び出してきて、あっという間に全身を雁字搦めに拘束される。
「ひっ……きゃあああああああッ! なにっ、なんなのこれ⁉︎ う、動けないっ」
「小雪ちゃ……きゃっ」
全身を取り巻く得体の知れない黒い影。ぬらぬらと動くソレを外そうと四苦八苦するも、小雪ちゃんと私は完全に動きを封じられてしまった。
「く、くそっ。外れねえ!」
一方の玉己くんも、妖力を高めて脱出を目論んでいるようだが、やはりそう簡単に体から黒い影を引き剥がせないようで必死にもがいている。
「みっ、皆さん! ……ひっ」
慌てて霊華さんが私たちを救い出そうとコチラに引き返してきたものの、彼女の目の前には、件の僧衣の元住職男性がヌウッと現れた。
『邪魔するなよ貴様ァァァァ! 金が俺を待ってル、現世の空気、早く吸わせろヨオォォォォ!』
先ほどまでは半透明であることを除けば、普通の人間となんら変わりのない姿を保っていた男性。だが、今の彼は禍々しい闇を全身に纏い、落ち窪んだ瞳を魑魅魍魎と光らせて半開きにした口からぼたぼたと涎をこぼしている。
怨念あるいは執念が肥大化して正気を保てなくなったのか。明らかに容姿も、声色も、精神も、もはや異様な化け物のようにしか見えない。
『さァまずハァそこの雪ん子からァァ‼︎‼︎』
「き、きゃあああああッ」
「っと」
『――ッ!』
男はグワっと牙を剥き出し、小雪ちゃん目掛けて焼け爛れた長い腕を伸ばそうとした……が、それよりも早く、蒼白い炎の塊が勢いよく飛んできて、小雪ちゃんの体を包み込んだ。
「がきんちょ!」
「ひい、アツッッ………ん? アレ、熱く…………ない……?」
「あん⁉︎」
といっても、猛火に包まれたのは小雪ちゃん自身ではなく、小雪ちゃんに巻き付いていた黒い影の方だ。言葉の通り、本人は痛くも痒くも熱くもないようで、半信半疑といった表情で両手足を確認している。
「熱くないし、黒いぬらぬら消えたし、私、自由に動けてるッ!」
「実況中継してる場合かよ! っつうかびっくりさせてんじゃねえよ!」
「だ、だって……」
『ぐっ、き、貴様! 邪魔しヤがったナ……!』
「まったく……懲りない男だね、君も。クラスメイトの手前もあるし、せっかく温情をかけてやってたっていうのに……。身の程も弁えず〝死〟以上の苦を味わいたいってんなら、お望み通り今すぐ闇に葬ってやろうか」
「く、九我さん!」
もちろん、小雪ちゃんにまとわりついていた黒い影を一掃し、私たちの目の前に立ちはだかってくれたのは九我さんだ。
彼は自身に巻き付いていた黒い影など全く意に介すことなくすでに始末を終えており、静かな闘志を漲らせて住職男性に冷ややかな眼差しを送っている。
「にゃんだよ九我白影、おめーの仕業か! くそ、驚かせやがって……」
安堵しつつも恨みがましい表情で悪態づいた玉己くん。そんな彼のもとにもすぐさま蒼白い炎の塊が飛んできて猛炎が上がる。小雪ちゃんの時と同様、熱さはないのかなと思いきや、彼においてはものの見事に熱かったようで「ホア゛アッヅッッ‼︎」と豪快な奇声を上げていた。
「うおい! あっちいじゃねえかてめえ! 丸焦げになるところだったにゃ!」
「助けてやったっていうのに、相変わらず煩い猫だね君は。それはそうとその程度の悪霊を自力で祓えないとは君もまだまだだね。貸しにしといてやるから、さっさと担当の雪女くんの保護を頼むよ」
「ぐっ……わ、わかってるっつうの……! くそっ、相変わらず一言多い奴だにゃ。學園戻ったら休む暇もねえぐらいおめえの近くで煩く騒いでやっから覚悟しとけよ!」
ちりぢりになった前髪を指で撫でながら、涙目で抗議する玉己くん。
苦笑をこぼしつつも小雪ちゃんと玉己くんが無事に悪霊たちの手から解放されたことにホッと胸を撫で下ろす。その直後、私の元にも炎の塊が飛んできて身の回りの黒い影が焼き払われ、体に自由が戻った。
……もちろん、熱さはなかった。
「あっ、ありがとうございます!」
「ここは僕が引き受ける。君たちは先に管理局へ向かってくれ」
「! え、でも!」
『お、おのれええええ貴様ァァァァ!』
「いいから早く行くんだ!」
「は、はいッ」
迷っているような暇はなかった。返事をするや否や、九我さんは素早くその場から飛び出し、住職の男性が次々と放ってくる黒い矢の攻撃をひらりひらりと交わしながら、蒼白い炎を放って応戦する。
どれだけ住職男性が狂ったように呪詛を唱え死者を操って攻撃を仕掛けてこようとも、九我さんが次々と生み出す炎はあっという間にその全てを焼き払い、住職の男性はなすすべなく数珠を握りしめる。
『ぐぬううううううッッ』
(す、すごい……)
これが〝上級あやかし〟と呼ばれる妖狐の力――。
圧倒的な妖力で分は完全に九我さん側に傾いており、無用な心配に捉われるよりは一刻も早く街管理局に駆け込んで援軍を呼んだ方が賢明だろうと腹を括り、彼の指示通りにその場から再び駆け出そうとしたのだった……が、しかし――。
「……っ」
大勢の悪霊を相手にしても、まるで引けをとることなく優勢に応戦していたはずの九我さんの動きが急にぴたりと止まり、ほんの僅かに、彼の足元がぐらりとふらついたように見えた。
「く……」
「(え……?)」
いや、気のせいではない。彼は顔を顰めながら建物の壁に手をつき、苦しそうな表情で胸元をおさえている。
一体何が起きたのだろう。
それはわからないけれど、隙が生まれた九我さんに向かって住職男性は追い打ちをかけるようさらなる無数の矢を放つ。
『もらったァァァ!』
「く、九我さんッッ!」
「……っ!」
「へ? ちょ、どこ行くのタマ!」
私が声を発したのと、玉己くんが九我さんの異変に気がつき、方向転換して彼の元まで猛ダッシュしたのはほぼ同時だった。
――壁にもたれる九我さん目掛け、夥しい数の黒い矢が降り注ぐ。
それは本当に一瞬の出来事で、矢が彼に直撃したことを暗に示すよう血飛沫が辺り一帯に舞った。
『ヒャハハハッ命中ゥゥゥ!』
「……‼︎‼︎」
「く、九我さ……――」
全身から血の気が引き、足元が崩れ落ちそうになる。
でも、なんとかそれを踏みとどめて無我夢中で彼の元へ歩み寄ろうとして、ハッとした。
――違う。
『……と、おやあ? 君は……』
「た……」
無数の黒い矢が直撃したのは、九我さんではない。
蹲る九我さんを押し退け、彼の代わりに降り注ぐ矢弾の標的となったのは、
「玉己くんッッッッッ‼︎‼︎」
全身に深い傷を負い、血まみれとなってその場に崩れ落ちた玉己くんだった。