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6-9 嫌な匂い

 ◇


 冥界案内所を後にした私たちは、再び船に乗って『田所公子』さんが住まう二十三番地区へ向かう。


 その道中の船内で、九我さんがプリントアウトしてくれた資料を読み込んでいた小雪ちゃんは、眉を顰めながらまじまじと呟いた。


「ふーん。この勤務歴三年の家政婦さん、ポチの一族惨殺騒動の際は不在にしていて難を逃れたけど、その後まもなく心労が祟って病気でなくなったのね。可哀想に……。それもポチの呪いの一種なのかしら」


 小雪ちゃんの同情あふれるその一言に、すぐさま反応を示したのは彼女の隣に座っていた玉己くんだ。


「おいおいガキンチョ。気持ちはわからないでもねーけど、なんでもかんでも犬飼のせいにすんにゃよなー。ただの偶然かもしれないだろー」


「それはそうだけどさ……」


「そもそもここの住人にいちいち感情移入してたら面倒なことにしかならないにゃ。同情する暇があるなら、この後の予定の練り直しでも……って、おい九我白影。先を急かしておきながらなに呑気に寝てるにゃ」


 ――ふとここで。玉己くんが、プリントアウトした資料の一部を手にしたまま船の縁に凭れかかって目を瞑っていた九我さんに向かって、不満そうな声を投げた。


「……」


 すぐに長い睫毛を持ち上げて彼を見た九我さんは、ひどく気だるそうな顔で口を開く。


「どこにいても無神経に爆睡できそうな君と一緒にしないでくれるかな。考え事をしていただけで、寝ていたわけじゃない」


「(ぐぬっ。ああそうですかそれはそれは失礼しましたさすが繊細な上級あやかし様は格が違いますねえ)この狐野郎、いちいち一言多いしやっぱり性格最悪だにゃ」


「大丈夫かい? 心の声と実際の発言が逆になってるようだが」


「おっとうっかり。無神経だから逆になってることに気が付かなかったにゃ」


「それは無神経通り越して無能の範疇じゃないかな」


「に、にゃんだとー⁉」


「ま、まあまあ二人とも……!」


 顔を合わせれば小競り合いをはじめるこの二人。(いや、小競り合いというよりは、どちらかというと玉己くんが故意に絡みにいってるともいう)


 苦笑しつつ二人の間に割って入ると、空気を読んだ小雪ちゃんも持っていた除霊用数珠を差し出し、


「ちょ、ちょっとタマ、彼を怒らせると後が怖いわよ! ほ、ほら。もういいから大人しくこの除霊用数珠についたポンポンで遊んでなさいよ」


 ……と、隣にいる玉己くんを宥めにかかる。


「なめんなよガキンチョ、俺がそんな陳腐なぽんぽんで……ぶにゃー!」


 それを差し出された玉己くんはひどく心外そうに数珠を払いのけようとしたものの、小さなぼんぼりと目が合うや否や一心不乱にじゃれつき始めたので密かに安堵する私と小雪ちゃん。


「(よかった。小雪ちゃんのおかげで助かっ……っと、あれ?)」


 ――ふと。


 一方の九我さんはと思って隣に視線を投げると、彼はやや浮かない顔で船の外の水面を眺め、何かを考えている? ようだった。


「……」


「……」


 彼の横顔をじっと見つめ、しばらくは様子を窺っていたのだけれど……。


「あの……」


「……?」


「少し顔色が悪いようですが……大丈夫ですか?」


「……っ」


 おそらく気のせいではないだろう。ほんの僅かに違和感を感じたので思い切って小声で尋ねてみたところ、九我さんは驚いたように私を見た。


 目の前にいる玉己くんと小雪ちゃんは数珠のぼんぼんで遊んでいて、こちらの会話には耳を傾けていない。九我さんはそれを確認したうえで、二人には聞こえないよう私の耳元に小声を返す。


「さすが……医學部の肩書は伊達じゃないようだね」


「あ、いえ……」


「お気遣いには感謝するが、心配にはおよばないよ。ここのところ色々立て込んでいたからね。少し疲れが出ただけかと」


 私を心配させまいと、にこやかな笑みを浮かべる九我さん。


「そう……ですか……」


 だとすれば――なぜこのタイミングで私たちの零番街行きという非常に厄介でリスクの高い旅に同行する気になってくれたのかという疑問が脳裏をよぎったが、彼のその微笑みにはいかなる詮索をも許さないような強力な圧を感じたので、それ以上の言及は躊躇われた。


「えっと、なら、何か元気がでるお菓子でも……」


 仕方がない。ならば代わりに……と、自分のポーチに手を伸ばしていたところ、私の顔をじっと見つめていた九我さんが、感心するような声色で言った。


「君は本当に、何の裏表もなく善意で他者への世話を焼いてるんだね」


「……へ?」


「僕の周りにはご機嫌取りで世話を焼く輩が多くてね、そういうのは大抵匂いでわかるんだ。でも、君からは荒んだ煩悩の気配を感じないっていうか、まるで嫌な匂いがしない」


「……(におい?)?? そう、ですか……?」


「ああ。天堂センセイが目を付けるぐらいの女性だし、一体どんな人間なのかと思っていたけど……まさかここまで穢れのない人間が彼のお好みだったとはね。参考に聞かせてもらいたいんだけど、君はなぜ、善意だけでそんなに他者に優しくできるんだい?」


 心底疑問だといった表情で九我さんが尋に問われ、少々面を食らう。


 煩悩とか匂いとか言われても今イチよくわからないけれど、ただ、自分の行動基準については一つだけ言えることがあった。


「優しいかどうかはわからないですけど……誰かのために何かをしたいと思うのは、私自身が全くの他人だった方に善意で育てて頂いて、心を救われたからだと思います」


「へえ、赤の他人に……?」


「はい。妖医をしている里親です。私はその方から本当に多くのものを学びましたし、人から差し伸べられた手がどれだけ温かいか、身をもって知ることもできたので、今度は自分がそれを周囲の人達に還元できたらいいなって、ただそれだけで……」


「……」


「って、還元できるほど力があるわけじゃないのに、なんか偉そうですね、私」


 苦笑をにじませながら最後にそう付け加えると、拙い説明を真剣に聞いてくれていた九我さんは「やっぱり、健気だなあ」と呟いて、静かに微笑んだ。


「まぁ、それを聞いて天堂センセイやそこにいる二人が、君を慕っている理由がわかった気がするよ」


「え⁉ いやいや、慕われてるだなんてそんな……! って、よく考えれば九我さんだって善意だけで零番街までついてきてくださったじゃないですか。普段お忙しいってことなのに、私なんかよりも充分優しさにあふれてるかと思いますけど!」


 琥珀色の瞳にジッと見つめられ、なんだか落ち着かない気持ちになって慌てて話題をそらすと、九我さんは穏やかな表情を崩さずに言った。


「ふふ。優しさ、ねえ。それはどうかな? 言っただろ、僕には他にも野暮用があったって。きちんと対価を考えてるし、やさしさとはまた違うと思うよ」


「そうでしょうか……? あ、でも野暮用といえば、たしか九我さん『会いたい人がいる』って仰ってましたよね。先ほども別端末で調べ物をしていたようですし、会いたい方は見つかったんですか?」


 思い出したように尋ねると、九我さんは一瞬どこか遠くに視線を向け、


「……ああ。おかげ様で見つけることができたよ。ただ、会いに行くのはちょっと厳しいかな」


 と、苦笑気味に答えた。


「なぜです? せっかくですし、みつかったのなら立ち寄っていっても……」


「そうしたいのは山々なんだけどね、相手は往復三時間以上かかる街外れに住んでいるようなんだ。今回の僕はあくまで君たちのおまけのようなものだし、今の状況ではあまりリスクを冒したくはないから。日を改めて訪れることにするよ」


「そんな……」


「大丈夫。僕は守るべきものがない状態の方が自由に動けて、力も好き放題解放できるから」


「う、それは確かに……」


 少し冗談めいたように言う九我さんだけれど、残念ながらその言葉に異論はない。むしろ、下手に首を突っ込んだり横やりをいれようものなら逆にお荷物になってしまう可能性すらある。


「まあ、おかげさまで下調べもできたし、僕にとってはもう充分に有益な対価は得られたってところだから。気にしないでいいよ」


「そうですか、九我さんがそう仰るならそれでいいんですが……」


「お気遣いありがとう。それはそうと……これ、河童君の件についてなんだけど」


 ふとここで、九我さんが思い出したように手に持っていた資料を私に差し出してきた。


「! あ、はいっ」


 受け取った紙面に視線を落とすと、そこには九我さんが調べてくれた住民検索の結果が整然と並んでいた。


 まず、『福富ヤエ子』の名前で抽出された同姓同名の該当者が三件。


 うち二件は、死亡年齢(二十代と三十代)や、出身地および主な生前活動地(沖縄、関西圏)、生前の血縁者構成(一人は子が二人、もう一人は子が六人)などを勘案すると、河太郎くんの知るヤエ婆ではないことが安易に推察できる。


「たしかお目当ての女性は、河童君が出会った段階ですでに八十を越えていたって話だよね?」


「はい。そのはずです」


「ならやっぱり、リストにある上二人は除外してよさそうかな」


「ですね……。年齢だけでなく、ヤエさんにはお子さんがいらっしゃらなかったはずなので、やはり上記二名は除外して差し支えないと思います」


「ふむ。――となると、おそらく該当者は上から三番目に表示されてる女性ってことになるんだけど……」


「はい。でも、これ……」


 確かにそこには、河太郎くんから聞いていた通りの『ヤエ婆さん』らしき情報の記述があり、この女性こそ間違いなくヤエさんだと目星をつけることはできたのだが……。


「三年前から離街……?」


 備考欄に書かれた『××××年~就労による離街』の文字に、首を傾げる。


「ああ。この女性は籍を零番街に残したまま、他街……あるいは『現世』へ働きに出ているようなんだ。まぁ、彼女は『幽霊』だからね。他のあやかしと違って『現世』で働くとは考えにくいから、おそらく一番街~十三番街のどこかだろうと思うけど」


「一番街から十三番街……」


「うん。いずれにしても、そうなるともう彼女の居場所を突き止めるのはちょっと厳しいかな。共用システムや公共機関じゃこれ以上の個人情報は探れないからね。誰か彼女とゆかりのある人に居所を聞くか、あるいは花染さん自身に何か心当たりがあるようなら話は別だけど……」


「うう。縁は全くないので……心当たりかぁ」


「どんな小さなことでもヒントになると思うよ。幽世内で『幽霊』が就業できる場所ってのはある程度限られてるからね」


「そうなんですか?」


「ああ。そもそもまず、『幽霊』ってのは他のあやかしに比べてちょっと特殊な存在だから、トラブル防止のためにも他街への出入りが厳しく管理されているはずなんだ。就労あるいは就学に必要なゲートパスを発行するのにもかなり厄介な審査や手続きをクリアしないといけないって耳にしたことがあるから、よっぽどの志や思い入れのある職種じゃないと離街自体、難しいんじゃないかな」


「そうなんですね。うーん……ヤエさんの希望しそうな職種か……」


 唇を噛みしめながら河太郎くんとの会話を思い返す。生前のヤエさんの職業については畑仕事をしていたこと以外、特に何も聞いていない。ただ、若い頃は『教師』になるという夢があったはずだ。


 時代背景に左右され、思うように学校へ通えなかったけど憧れていた、だから河太郎くんにも色々勉強を教えていた、と――。


(あ、れ……)


「……」


「なにか心当たりでもあったかい?」


「あ、いや。素朴な疑問なんですけど……『幽霊』の方たちって、他界された年齢の姿をされているんですかね?」


「そうとも限らないんじゃないかな。死者は死によって肉体が一度浄化されるはずだから。浄土での姿は閻魔様の判断次第で若返った肉体を授けられることもままあると思うよ」


「! そうなんだ……。じゃあやっぱり、もしかしたら――」


 ふと、瞬くように脳裏に過った『とある光景』。それは単に私の思いすごしかもしれない。けれど、思いすごしで済ますには心に引っかかる何かが、胸の中でじわじわと湧き上がっていた。

 

『マモナク二十三番地区船着キ場二到着デス』


「……!」


 ――と、ここで、ふいに聞こえたアナウンスにハッとする。


 いつの間にか船が減速をはじめ、目的地へ辿りつこうとしていた。


 幻想的で幽遠な世界から一変、眼前には妙に禍々しい気配が漂った雑居ビルの群れが見えてくる。


「っと、お喋りはここまでのようだね。なんだかこの辺りは今までとは比べ物にならないぐらい嫌な匂いがする。河童君の件はひとまず保留にして、今はとにかく目先の『田所公子』の件に集中して先を急ごう」


「そうですね……わかりました」


 ゆっくりと立ち上がった九我さんに続くよう、神妙な面持ちで席を立つ私。


「あ、おい待つにゃ」


「え。やだちょっと待ってよ、一番最後とか怖いんですけど⁉」


 除霊グッズから顔を上げた玉己くんと小雪ちゃんも慌てて立ち上がり、私たちは一縷の望みを託すよう、『田所公子』さんの待つ二十三番地区へ恐る恐る足を踏み入れたのだった。


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