6-2 犬飼くんの過去
「どういうことだよ、これは」
犬飼くんの乾いた声が食堂の床に落ちる。
あたりはすぐにざわつきを取り戻したけれど、唇を噛み締めて俯く玉己くんは黙したまま。
「あ、あの、犬飼くんっ。これにはその、わけがあって。お節介な私が玉己くんに色々しつこく話しかけたり絡んだりしてただけで、そのっ」
「いや、俺から絡んだ」
「⁉︎」
「ちょっとここ数日色々あってさ。悪いけど、もう『人間だから』って理由だけで相手を忌避するのは辞めたにゃ」
たまりかねて口を挟もうとしたら、意を決したように言い放った玉己くんにあっさり遮られた。
「玉己くん……」
驚いた。まさか誤魔化すことなく正直に話しちゃうなんて。
偏見が解けた(と思っていいんだよね?)ことに、嬉しい気持ちもあるが、あんなに仲が良さそうだった二人の間に亀裂が入ってしまうんじゃないかと思うと居た堪れない。
おろおろする私に構わず、眉をつり上げた犬飼くんは今にも噛み付かんばかりの表情で目の前の親友を睨みつける。
「……は? んだよそれ! お前、あれだけ『人間』のこと憎んでたくせに今さらなに甘っちょろいこと言ってんだよ⁉︎」
「確かに今まではずっと人間が憎かったにゃ。でも、花染に色々現実を叩きつけられて……目が醒めちまったっていうか。もちろん、俺以上に人間に酷い扱いを受けてきたお前を思えば、俺の現実なんてたいしたことなかったのかもしんねえけど、でも」
「知るかよそんなん! っつうかそもそもなんでお前、俺の知らないところで人間なんかと連んでんだよ⁉︎ 騙されてんだろその女に! おい、そこのガリ勉……お前もだ!」
「ちょ、私は関係ないでしょ! 私は元々、『人間』とか『あやかし』とか、そういった垣根はこの幽世に必要ないって考える主義で……」
「はっ。呑気なこった。お前らは『人間』のクソみてぇな本性を知らねえからンな甘ぇことが言えるんだよ!」
床に落ちたトレーを踏みつけ、憤りを顕にする犬飼くん。
口を挟もうとした小雪ちゃんをはじめ、傍らでおたおたしていた私までびくりと肩を跳ね上げて萎縮してしまったけれど、唯一玉己くんだけはこうなることがわかっていたかのように、強く拳を握りしめて彼を見つめていた。
周囲の門人たちが犬飼くんの怒号に眉を顰めて小声を交わし始めると、犬飼くんは今にも祟り殺しそうなほど恐ろしい形相であたりを睨みつけ、やがて近くにあった空椅子を荒々しく蹴り飛ばしながら踵を返す。
「もういい、見損なったわ玉己。あんなに毛嫌いしてた人間にあやかしの矜持もなくヘラヘラしやがって……てめえはもう人間同様それ以下だ。『例の計画』は今後俺一人で進めるし、二度と俺のことを『相棒』呼ばわりするんじゃねえ」
「おい、犬か……」
「触んな!」
「……っ」
玉己くんが慌てて追いかけようとすると、犬飼くんはまるで腫れ物でも扱うようにその手を払い除け、スタスタとその場から立ち去っていく。
困り顔でなおも犬飼くんを追いかけようとした玉己くんだったが……今はなにを言っても無駄だと諦めたのか。差し出したその足はすぐにぴたりと止まり、大きなため息がその場にこぼれ落ちた。
◇
「なによあいつ……」
「うう、なんか、私のせいでごめん……」
「別に花染は悪くねーだろ。そもそもこれは、いつかぶち当たる壁だろうと思ってたし」
悪態づく小雪ちゃんと意気消沈する私を一瞥した玉己くんは、肩をすくめてから床に散らばったランチの残骸をテキパキと片づけ、再び着席する。思いのほか冷静に振る舞う彼だけれど、伏し目がちのその表情には抱え込んだ気鬱が隠しきれていない。
「まあ、犬飼のやつ、昔っから筋金入りの人間嫌いだったみたいだしね。タマが花染さんと仲よくしてればそれなりに揉めるんじゃないかとは思ってたけど……」
「……」
「この際だから教えなさいよ。一体、あいつと人間の間になにがあったっていうの? あんたたち仲良かったんだからそれぐらい知ってるんでしょ?」
「私も気になります……。玉己くん、さっき、『俺以上に人間に酷い扱いを受けてきたお前を思えば』って言ってましたけど、そんなに酷いことされたんですか?」
前のめりで問いただす小雪ちゃんに便乗し、おずおずと尋ねる。
すると玉己くんは最初、話そうかどうしようか迷ってるふうだったけれど……。
「別に隠すようなことじゃねえから話すけど……」
「うん?」
「あいつはかつて現世で、『ある一族』に『犬神』として使役されて支えてた犬の神霊――あやかしだったんだよ」
ぽつり、とこぼす玉己くん。
『犬神』という言葉は現世でも地方伝承なり架空小説なりで聞いたことがあったからなんとなくは知っている。諸説は様々だが、私が目にしたものでは『犬神使い』と言われる呪術師に召喚され、人を祟ったり災いをもたらしたりするのが犬の霊――『犬神』だとされていた。
それを思い出しながら小さく頷きを返すと、玉己くんは静かにその先を続ける。
「あいつは生まれた頃の記憶が全然ないらしくて。物心ついたときには現世で『犬神』として扱き使われ、周囲からはひどく畏れられるような存在だったみたいにゃ。……まあ、術者の指示一つで人に取り憑いたり、妖術で病魔を流行らせたり、ときには指定された獲物を呪い殺したりしてたようだから恐れられるのも当然だよな」
「う……」
「ちょ、昔のあいつ、そんな非道なことしてたの⁉︎」
「あくまで昔の話だぞ」
「わ、わかってるわよ。そ、それで……?」
すっかり興味を抱いたらしい小雪ちゃんが続きを促すと、玉己くんは神妙な面持ちで頷き、犬飼くんの過去を再び語り始める。
「んで、ある時に犬神使い――術者である人間の相棒から、何の罪もない小さなガキを殺せって命令されたらしいんだけど、そのガキとは元々ちょっとした縁があって。どうしても殺すことができなくて。そこで初めて、犬飼は自分のやってることに疑問を抱いたらしい。『自分はなんでこんな残酷なことをさせられてるんだろう』、『ひょっとしたら、今まで信用していた人間の相棒は悪い奴なんじゃ?』って」
「……」
「そう……」
「考え出したら止まらなくなった犬飼は、使役の隙をついてあれこれ調べ回った結果、自分は元々術者であるそいつの純粋な『愛犬』で、そいつの商売道具として利用されるためだけに、残忍な方法で殺されて、むりやり犬神化させられてたことを知っちまったんだよ」
「!」
「ちょ、ちょっと待って。むりやり犬神化ってどういうこと?」
「無念の末に自然に妖怪化したような俺と違って、あいつの場合は故意に呪術をかけられて殺されて、強制的に妖怪化したっていうか……。とにかく犬神の祭祀ってすっげえ残忍な方法らしいから。やれ、縛り付けたソイツの前に食物置いて、飢餓に苦しんで必死に物乞いするソイツの首を……」
「ちょちょちょ! なによそれやめてよもうっ! ランチが食べられなくなるでしょっ」
「うう……。わたし、猫も好きだけど犬も好きなので想像するだけで辛いです……」
「なんだよ、聞かれたから答えただけだろ。……まぁ、つまり、だ。ぞんざいに扱われていた自分の成り立ちを商売の犠牲者から聞いて知っちまった犬飼は、一気に憎悪の念を爆発させて術者である人間の相棒をはじめ、ソイツの一族や関係者まで祟り殺して自分も死のうとしたけど、運がいいのか悪いのか幽世警察に捕まっちまって、ずいぶん長い間、服役してたみたいにゃ」
「そうだったの……」
「そんなことがあったなんて……」
「ああ。まあ、あいつが人間にされてきたことも相当だったし、あいつは結果的に殺せなかった小さいガキを救ってたりもしたから、最終的には情状酌量が認められて一定期間の下獄後に釈放になったんだけど……幽世で再出発を始めた今でも、人間を怨み続けてるってわけ」
「なるほどね。それで納得がいったわ」
「……」
犬飼くんの暗い過去を知り、改めて重い息を吐き出す私たち。
想像していた以上に壮絶すぎる彼の過去に、すぐには紡ぐべき言葉が見つからなかった。
しばらく黙したまま、脳裏で情報を整理するよう俯いていると。
「俺が心配なのはさ」
苦々しい空気を裂くよう、玉己くんがぽつりと漏らす。
「うん?」
「あいつ、去り際に『例の計画は今後俺一人で進める』って言ってただろ」
「そういえば、なんかそんなようなこと言ってたわね」
「うん。私もそれ、ちょっと気になってた」
「っていうか『例の計画』ってなんのことなのよ?」
「學園で学んだ技術や高めた妖術を用いて、現世で人間に報復するって計画にゃ」
「!」
「あんたたち、そんなこと考えてたの⁉︎」
「もちろん、単なる戯れっつうか。憂さ晴らしの妄想に決まってんだろ」
「どうだか。あんたたちのことだし聞き捨てならないわ」
「本当だって。っつうか本気でそんなこと考えてたら危険思想で排除されて、そもそも學園にも受かってないにゃ」
「うーん。それはそうだけど……」
「お互いにそのつもりのはずだったんだけど……な。でも、さっきの犬飼のあれは、そうは聞こえなかったっていうか。あいつ、自棄になって本当にやるつもりになってきたんじゃねえかって、なんかそんな気がして」
重いため息をつく玉己くんに、私も一抹の不安を抱きはじめていた。
もしかしたらそんなに不安がるようなことじゃないのかもしれないけれど、でも。
あれだけ仲の良かった玉己くんに裏切られたことや、大事な親友を憎むべき相手――人間にとられた(と思われた)反動で、犬飼くんの精神がかなりブレていたようにも感じる。
「……」
犬飼くんのこと、気になるし。
河太郎くんのこともあるし。
やはりこれはもう……思い切って動くしかないだろう。
「……へ……こう」
「あん?」
「……?」
ぽつん、と漏らすと、キョトンとしたようにこちらを向く二人。
ぐっと拳を握りしめた私はすっくと立ち上がると、決意漲る顔で燃え上がるお節介心を剥き出しにする。
「やっぱり、零番街へ行こう」
――……と。




