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5-13 通りすがりの大学生

「……」


「夢子さん……」


 言葉なく立ち尽くす玉己くんの頬を、一筋の涙が音もなく伝っていく。


 そこにいるのは、もはや憎むべき相手ではない。


 百年経った今でも変わらずに愛してやまない、たった一人の主人であり、家族なのだ。


 特に何か言葉を交わしたわけではないけれど、夢子さんに会えて嬉しそうな玉己くんの表情が、何よりそれを物語っていた。


「やっぱり、玉己くんのことを待ってたんだね」


「……」


「……行かないの?」


 なかなか足が出ないでいる玉己くんにそう尋ねると、彼は気恥ずかしげに目元を拭いながらぼやいた。


「いく、けど……でも、今さらどんな顔して会えば……」


「いいじゃないの、いつも通りで。どんな玉己くんでも、玉己くんには変わりないんだから」


「……っ。そ、それはそうだけ――」


 燻る彼に発破をかけて、彼女の元へ向かおうと思った――その時、ベンチに座っていた夢子さんが突然激しく咳き込み始めた。


「……!」


「ゆ、夢子さん⁉︎」


 発作だろうか? ひどく顔色が悪い。


 慌てて彼女の元へ向かって走り出す玉己くんと私。


 途中、玉己くんがハッとしたように歩みを止めた。


 自分が半妖の――人の姿のままであることに気がついたのだろう。……けれど、苦しそうに咳を繰り返す夢子さんを前に、猫の姿に戻っているような余裕はなかった。


 そのまま再び走り出した玉己くんを背に、先に夢子さんの元まで辿り着いたのは私の方だ。


「げほげほ、ぜぇ、ぜぇ……」


「だ、大丈夫ですか⁉︎」


「……っ」


 顔を顰め、胸元をおさえている夢子さんに声をかけながら優しく背を撫でる。


 夢子さんは一瞬、驚いたような顔をしてこちらを見たのだが、意識が朦朧としているのか、今は呼吸を整えるのが精一杯のようで会話にはならなかった。


「今すぐ救急車を――」


 あまりにも顔色が悪いため、慌ててポケットから携帯電話を取り出して救急車を呼ぼうとしたのだが、夢子さんは震える手でそれを制した。


「真……夢ちゃん、いいの、このままで、いいの」


 振り絞るように出された弱々しい声。


 どうやら彼女には私が真夢ちゃんに見えているようだ。


 この際、ここはもう真夢ちゃんのふりをすることにして、こんなに瀕死な状態だというのに、『救急車を呼ばなくていい』だなんて……。


「で、でも、このままじゃ……」


「玉己が、まだ来てないから」


「……っ」


「私は……もう……長くない、って……自分で、わか、って、る……から……」


「夢……おばあちゃん……」


「だから……せめ、て……最期、まで……ここで、玉己を……待たせて……」


 弱々しげな呼吸の合間に、しっかりと吐き出されたたった一つの彼女の願い。


 私をまっすぐに見つめてくるそのつぶらな瞳は、彼女の想いの強さが滲み出るよう厚い涙の膜に覆われていた。


「……」


「お願……」


「……! おばあちゃ――」


 ――だが、その願いを無下にするよう、彼女が胸の痛みに耐えかねるよう、ぎゅっと目を閉じた。


 慌てて彼女の名を呼ぼうとしたのだが、そんな私を押し退けるよう、目の前をクリーム色の髪の毛が遮った。


「しっかりしろ、夢子!」


「!」


「……⁉︎」


 ――玉己くん、だ。


 朦朧とする意識から引き戻されるよう、夢子さんが重い瞼を持ち上げる。


「おい、しっかりしろ夢子ッ! どこが大丈夫なんだよ、顔、真っ青だろ!」


 玉己くんは前屈みになっている夢子さんの身体を片手で支えると、空いた片手で彼女の頬を優しく叩き、目線だけはこちらに向けて言った。


「今すぐ救急車呼んでやっからな、おい花染! さっさと救急車呼ぶに……コホン、呼んでくれ、早く!」


「え、あ、はいっ! でもあの、ここはどこだと説明すれば……」


「ああそうか、お前土地勘ねぇのか。じゃあ電話繋がったら変わるから、ひとまず百十九番に……っと……」


「……」


「……あ、えっと。俺は、その……」


「…………」


 ふと、夢子さんの虚ろな視線に気がついた玉己くん。


 今の姿では不審がられるのも無理はない。夢子さんを気遣ってか、玉己くんはひとまず差し障りのない説明を挟む。


「俺はその、ただの通りすがりの大学生にゃ……だ。それで、えっと、お前が探してる猫なら、さっきあの辺にいた……と思うから、診察が終わったら会わせてやる。だから、今はとにかく病院に……」


 ――しかしその優しい嘘は、最後までつき通されることはなかった。


「……!」


 ふわりと。骨張ったしわしわの夢子さんの手が、玉己くんの上半身を優しく包み込む。


 ベンチの前で跪く玉己くんを、夢子さんが強く……力一杯抱きしめたのだ。


「夢……」


「た、まき……」


「……っ」


 ――確かに聞こえた、彼の名前。


「玉己……」


「……」


「おかえり、玉己……」


 お互い、変わり果てた姿。


 百年の年月が二人を隔て、猫が人となり、少女が老婆となった。


 あの頃と変わった外見。


 見た目ばかりか声も、感触も、二人を取り巻く時代までもが変わった。


 それでも――。


「ごめん、ね……玉己」


 彼女には愛する家族の姿がまぎれもなく見えていて、


「……」


「私のせいでごめん」


 百年の月日が流れようとも、何一つ変わらぬその想い。


「戻ってきてくれて……ううん、迎え(・・)にきてくれて、ありがとう」


 最後の力を振り絞るよう呟かれた声が玉己くんの元に届いた時、彼の瞳から、堪えていたのだろう涙がぼろりと零れ落ちた。


「……」


 ふいに柔らかな光が半妖の彼を包みこみ、いつの間にか元の猫の姿に戻る玉己くん。


「たま、き……、わ、たしね……」


〝もう、喋らなくていいから――〟


 そう語りかけるよう、にゃあん……と鳴く彼。


 もうそこに、言葉など必要はなかった。


 ようやく想いを伝えられた安堵からか、それともずっと待ち続けていた玉己くんに会えたからなのか。


 夢子さんは言葉の代わりに幾重もの涙を流し、腕の中の愛猫をそれはそれは大切そうに抱き寄せて、まるで、これでやっと安らかに眠れる……とでもいうように、穏やかな表情で目を閉じる。


〝ありがとう、玉己――〟


「にゃぁん……」


 玉己くんは決して目を逸らすことなく、小さな体で彼女を労わるよう何度も何度も彼女の濡れた頬を舌で拭い――……そうして主の最期を、静かに看取ったのだった。



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