1-2 幽世へ
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京の奥座敷として知られる貴船は、叡山電鉄鞍馬線貴船口駅を降りてからバスで貴船川沿いに進むと、やがて川床として有名な旅館や料理屋が立ち並ぶ小道に行き当たり、清らかな水流を横目にさらに川縁の道を奥まで進むと朱塗りの灯籠が姿を現す。
いかにも幽玄な佇まいで参拝客を待ち構えるその古社は、水神様を祀る貴船神社だ。
その辺り一帯は日中、特に観光シーズンの土日は人の往来が絶えない京都の人気スポットのひとつであるが、じいちゃんの診療所はそんな奥座敷の傍ら、川縁の木々の中にひっそりと佇んでいる。
(えっと、ここだよね……)
診療所から歩いて十数分。貴船神社の本社、二の鳥居前。早朝四時四十二分。日中なら観光客で賑わう観光スポットもさすがにこの時間では人の気配はなく、あたりは不気味なほどに静まり返っている。
(あと二分――)
入学・入寮案内の通知には、指定された時間に指定された場所へ赴き、誘導の合図が出たら己の左手を翳すべし、とあった。
果たしてどのような合図が出てくるのかそわそわ腕時計とあたりの様子を見比べて待つこと約二分。
時計の針が四時四十四分をさした瞬間、鳥居の一部がほんのりと淡い光を帯びはじめた。
(これだ……)
どぎまぎしながら自分の左の掌を淡い光にかざす。すると、手の甲に紋章のようなものがほわんと浮かび上がり、それに呼応するかのごとく鳥居全体が、そしてその先にある石段脇の朱い灯籠が、それぞれやんわりと幻想的な光を灯し出した。
(すごい、綺麗)
思わず見惚れかけてかぶりを振る。急がないと消えてしまう。
昂る気持ちを抑えながら長い石段を登る。最上段まで上がった時には背後の鳥居と灯籠の明かりは音もなく消え失せており、自分の左手の刻印も何事もなかったかのように跡形もなく姿を消していた。
(今のが『あちらの世界』へのパスポートみたいなものか……)
自分の左手をしげしげと見つめる。家に届いた案内状によると、この刻印は入学許可証を受け取った時点で学生全員に刻印され、普段は無色透明で形を顰めているが、然るべき場所、然るべき時には今のように自然と浮かび上がってくるのだとか。
(こちらの世界と違って、あちらは随分便利な世界なのね)
一人静かに納得しつつ再び前を向く。目の前には厳かな神門がどっしりと入り口を構えていて、本来であればここをくぐれば本殿や社務所などがある境内に辿り着くはずなのだが、一寸先は東天のような仄暗い空に足元は薄く張った水の大地。ところどころに白く輝く花が浮かんだり水辺にはぼんやりとした光を放つ蛍や蝶、小鳥たちがひらひら舞っていて、幻想的で美しい空間が広がっていた。
(あ、電車、来てる)
感慨もひとしお、目と鼻の先には小さな駅舎のような建物があり、和を基調とした豪華絢爛な一両列車が私を待ち構えるように停車していた。
思い切って神門を潜ると、足を差し出した場所だけ水がすっと捌けていき、少しも濡れることなく駅舎へ辿り着く。
『乗客確認。花染琴羽サンデスネ?』
列車に近づくと前扉が開き、中から二本足で歩く巨大な黒い狗のような車掌さんが顔を出して尋ねてきた。
「あ、はい。そうです」
『學生証ノ提示ヲ』
掌を差し出されたので、慌てて自分の左手をその上に翳すと再び刻印がほわっと現れて私の身分を証明してくれたようだった。
車掌さんはうむと頷いて『オ好キナ席へ』と車内へ入るよう促す。
見た目の華やかさに負けず、車内も目を見張るほど美しい造りだ。
豪華な寝台列車のような広々とした車内に、小洒落たアンティークの調度品。ゆったりした座席に、開放感のある車窓。ところどころに天窓も付いていているため、頭上を仰げば霞みがかった藍色の空が視界に飛び込んでくる。
『幽世行キ、発車シマス』
感嘆の息を漏らす間もなく、扉を閉めると音もなくすうっと浮かんで滑らかに発車する列車。そのまま飛ぶようにして貴船の宙を走った列車は、やがて貴船神社の奥宮脇を通り越し、貴船山の麓にひっそりと口を開ける長いトンネルに入っていった。
(暗くて何も見えない……)
せっかくなので小旅行気分でも楽しもうと思ったが景色を拝めたのは束の間で、長らく続く窓の外の闇。少々残念な気持ちになりつつも、座っているソファは柔らかくふかふかで、車内の調度品一つ一つも実に味わい深い趣がある。
下車するまで暇潰しには困らないな、なんて思っていると、ふいに背後から声をかけられた。
「ねえ、あなた新入生?」
てっきりこの車両には他の乗客がいないと思っていたので、どきりとしながら振り返ると、丸みのあるボブヘアとくりっとした大きな瞳が印象的な二十歳前後の女性が私の顔を覗き込むようにして後部座席から身を乗り出していた。
「……はい。幽世大學医学部、薬学科の花染琴羽です」
「そう。私も幽世大に入学する陰陽学部退魔科の藤田桃っていうの。よろしくね」
にっこり微笑む藤田さんに「こちらこそよろしくお願いします」と深々頭を下げると、
「同期生なんだしそんなにかしこまらないでいいよ。隣いいかな?」
彼女はそう言って、私が頷くのを認めてからこちらへやってきて隣に腰掛けた。彼女の動きに合わせてふわりと甘いフローラルピーチの香りが漂う。
「私、神奈川の寒川神社前からこの電車に乗ったんだけど、他に乗客いないみたいだし、このまま無人だったらどうしようかと思った。私以外にも女の子がいてよかったあ」
「そうなんだね。入学生、少ないのかな」
「まぁ、確かに『人間』の入学生は少ないのかもしれないね。倍率すごいみたいだし。単に私はこの時間を指定された人間が少なかっただけなのかなーって思ったけど」
言われてからなるほど、と思う。
案内状に記された時間や場所は各々違うだろうし、全員が全員、同じ列車に乗り合わせるとも限らない。
何が正解かはわからないが、ひとまずここはそう思うことにする。
「そっか。それもそうだね。私も女の子がいてほっとしたよ」
「うんうん。……ねぇ、琴羽ちゃんは幽世に行くの初めて?」
きっと彼女は人と話すことが好きな子なのだろう。目をきらきらと輝かせて尋ねてくるので、微笑ましく思いながら小さく頷いてみせた。
「うん。試験は全部自宅で受けたから」
「そうなんだぁ。やっぱり受験方法はランダムで指示されるっていうのも本当だったんだね。私は一次と二次試験は自宅だったけど、三次は幽世内の指定された場所で実地試験だったんだ。まぁ、三次の時点ですでに合否は出てたのかもしれないけど」
「そうだったの。筆記しかなかった私とは全然違うね」
「うちの学部は特に人気らしいし、そもそも実際にあっちの世界に辿り着けるかどうかも審査内容に入ってるみたいだからね。琴羽ちゃんはよく筆記だけで試験通ったね。もしかしてよっぽど成績優秀だとか?」
「まさか。単に運が良かっただけだと思うよ」
「あはは。そんなに謙遜しないでも。でもまあ確かに運も一つの要素になるのはあるみたいだから、それはそれでいい強みになるんじゃないかなぁ」
冗談めかしたように笑う藤田さんに微笑みを返す。
あえて口にはしなかったが、じいちゃんの話によると、実際、幽世大は願書を提出した時点で九割がた合否が決まっているらしい。
志望動機。素質があるかどうか。あやかしとの共生ができる人材であるかどうか。得た知識を正しく現世で使用できるかどうか。幽世にとって有益な人物となし得るかどうかなど。
それらは願書に使われている特殊な用紙――付喪神の力によって、触れただけで瞬時にその真意が大學側に伝わるのだとか。
なお、普通の人間にはない特殊な力を持っている者は優遇されやすいと聞いたが、おそらく私はこれに当てはまるだろう。視える、視えないの他に、私の中にはちょっとだけ不思議な力が宿っている。
「そうだね。お互い合格できて良かったよね」
いずれにしても無事に合格できたことはありがたいことに変わりない。そう締め括ると、藤田さんは深く頷きを返し、安堵の声を漏らした。
「本当だよ! 実はうち、代々陰陽師やってる家系なんだよね。でも、なんでかうちの両親にはその素質がなくってさあ。今まで肩身の狭い思いしてたんだけど、幽世大に受かったからには他の親族に負けないような力や技術をつけて、絶対目にもの見せてやるんだから!」
意気込む藤田さんは濁りのない瞳で意気揚々と拳を握った。
普通の大学生活を捨て、非日常的な幽世の学校に行く人間にはそれなりの理由がある。
それは輝かしいものであったり、禍々しい因縁であったり実に様々だけれど、皆、幽世でしか学べないものを会得して、人とあやかしの正しい共生に役立てようという志はきっと変わらないはずだ。
うんうん、と相槌を打っていると、ふいに頭上にアナウンスが流れた。
『マモナク幽世二到着デス』
長いトンネルが終わりを迎え、真っ暗だった車窓の眺めが急にぱっと開ける。真っ先に私の視界に飛び込んできたのは……。
「わ」
空に浮かぶ列車、バス、船。それらを統べる巨大なターミナルステーション。ビルや駅舎らしい建物が果てしなく続いていて、赤、青、白、ぼんやり光る行燈と赤提灯、それを羽織のように纏う建造物の数々は筆舌に尽くし難いほど美しく、その圧倒的な規模と迫力に息を呑んだ。
「大きい駅……」
「本当、いつ見てもうっとりする眺めだよね。私、最初にここへ来た時、感動で言葉出なかったもん」
まさに今、私もその状態だ。『幽世』と聞いて想像していたのは、暗くて静かでもっとじめじめした世界だったのだが、今目の前にある現実はそれとは程遠い、近未来と和を融合したような幻想的な空間だった。
私たちの乗った列車は、徐々に高度を下げるとやがてステーションの一角に滑らかに停車する。
乗降口の扉が開くと、外の賑やかな音が車内に流れ込んできた。
窓の外には人の形をしたあやかし――ツノの生えた鬼や、耳と尻尾を生やした妖狐、長い鼻の烏天狗や冷気を纏う女性、半分透けて見える男性など――を始め、一本足で歩く人ならざる者から、四本足で地面を素早く移動する動物のような生物に、足はなくふよふよと宙に浮く木綿など。
様々なあやかしたちが電車の乗り継ぎに、駅ビルで買い物にと、忙しなく通り過ぎていく。
「さてと。確かここが十三番街よね。私は小桜通りの『卯の花寮』に行くんだけど、琴羽ちゃんはどこの寮?」
「私は紅葉通りにある『幽世庵』っていうところ」
「紅葉通りかあ。えーっと、案内状の地図によると……っと。んー、正反対の方向だからここまでかな」
藤田さんは持っていた地図を見ながら残念そうに肩を落とす。
「そっか。残念だけど仕方ないね」
「うん。また入学式で会えるといいな。かなり出席者が多いらしいから難しいかもだけど」
「もし見かけたら声かけるよ」
「私も! 落ち着いたら卯の花寮にも遊びに来て!」
「うん、ありがとう。藤田さんも遊びにきてね」
こちらの世界では、当然のことながら携帯電話は使えない。
通信はもちろんのこと、住所交換ツールやカメラ機能など一切不可だと案内状に書き記されていたため、私たちは口頭で挨拶を交わしてその場で別れる。
今のご時世、文明の利器が使えないというのは非常に不便ではあるが、いずれ携帯電話に代わる代物を配給されるらしいので、それまではこの生活に慣れるしかないだろう。
再び一人になった私は荷物を抱えて乗り場を移動する。
『二十二番線、白銀通り・白銀商店街~紅葉・胡蝶蘭通り方面行きバス、まもなく発車します』
聞こえたアナウンスを頼りに紅葉通り方面行きのバスに乗り込むと、先ほどと違って車内には席が埋まるほどの乗客――小鬼、人魂、人魚、化け狸、アマビエ、ろくろ首などなど、大小様々なあやかしだ――が乗車しており、皆、楽しそうに会話をしたり、黙々とビジネスライクな書物を読んだりと自由に過ごしているようだった。
(なんだか凄いところに来たみたい……)
今さらながらそんなことを思ったりもしつつ、私の乗ったバスは巨大ターミナルを飛び立っていく。
かくして私は、賑やかなあやかし達の囁きに鼓膜をくすぐられながら、自分の下宿先となる『幽世庵』を目指した。