5-2 夢子ちゃんと玉己くん*
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『ねぇ猫ちゃん。あたし〝夢子〟っていうの。あなたは今日から〝たまき〟っていう名前ね。ミルクあげるから一緒に遊ぼー』
玉己くんが〝夢子〟と名乗る少女に出会ったのは、今から百年近く前のこと。
――現世に生まれ落ちて数日、どういう経緯でそこに辿り着いたのかはわからない。
ただ、ようやくぼんやりと目がみえるようになり、お腹が空いた時のひもじさや、全身を撫でる冷たい外気に身が縮むような寒さを覚えはじめた頃には大きな鉄橋の下の萎びた段ボールの中にいて、〝夢子〟と名乗る少女から恵まれる食糧のみで命を食い繋いでいたことだけは確かだったそうだ。
『ねぇ、たまき。お友達のカズちゃんがいってたんだけど、あなた、〝捨て猫〟っていうんだってね。お父さんとお母さんいなくてさみしい? 段ボールのおうちじゃさむいよね⁇ ミルクいっぱいあげるから夢子のおうちにおいでよ』
やがて夢子ちゃんはそう言って、玉己くんを自分の家へ連れ帰った。
そもそも父や母という存在が何なのかもわからない玉己くんにとっては寂しいという感情自体もなかったわけだが、彼女についていってあの大好きなミルクがたくさん飲めるなら願ったり叶ったりだし、湿気でへたった段ボールは寒いだけでなく糞尿の匂いもひどくて居心地が悪かったのも事実。
だから特に抵抗することもなく、されるがままといった感じで彼女の家までついていったのだが、夢子ちゃんがご両親の許可をとっていなかったせいもあって最初はひどく揉めたそうだ。
ともあれ彼女の粘り勝ちでなんとか無事に敷居を跨ぐことができ、玉己くんはその日から彼女の家族の一員として新たな生活を送ることになる。
いつしか夢子ちゃんが小学校を卒業し、制服を着て中学校に通いはじめ、やがて部活で忙しい高校生や、難しい勉強に明け暮れる大学生になっても、玉己くんは彼女の部屋で彼女の帰りをじっと待ち、玄関の開く音がすれば一目散にかけて行って気のないふりをしながらも構って欲しそうに頭をこすりつけ、彼女の傍を片時も離れずぬくぬくと育った。
夢子ちゃんの成長に伴い、共にいる時間は徐々に減ってはいたけれど、それでも玉己くんは幸せだった。
温かい部屋に美味しいご飯、愛しい主と共に眠れる日々――。
それだけがあれば充分だったし、猫の寿命は平均約十五年というから、このままいけば何の隔たりもなく幸せなまま生涯を終えるのだろうと漠然と思っていたそうなのだが……。
(最近夢子の奴、あまり構ってくれないにゃあ。昔は布団に入って眠くなるまでずっと一緒に遊んでたのに……。さては夢子、俺に内緒で変な男に浮気でもしてるんじゃ……!)
――最初にちょっとした違和感を覚えたのは、夢子ちゃんが大学卒業後に大手一流企業に就職し、一年ほどが経った頃だった。
その頃の夢子ちゃんはまだ実家で暮らしており、家にもちゃんと帰ってきていた。
けれども休日になると必ずどこかへ出掛けてしまうし、帰宅時間は今まで以上に遅く、寝に帰る以外ほとんど家で過ごすこともなくなった。
自分に対する愛情がなくなったのかといえばそういうわけでもないようだったが、とにかく毎日自分以外のどこかを見つめていて、自分には構っている余裕がない、常に忙しいといった様子。
(大手一流企業に勤めてて日々業務も忙しいみたいだしにゃあ。まぁ、仕方ないにゃ……)
寂しさを感じつつもどうすることもできず、さらに半年が経った頃、夢子ちゃんが実家を出て一人暮らしをすることになった。
『玉己も一緒に行こう。忙しくてなかなか構ってあげられないかもしれないけど……実家に置いてくなんてできないし、良い子にできるよね?』
もちろん玉己くんは夢子ちゃんについて実家を出た。
自分を気にかけてくれていたことが素直に嬉しかったし、愛しい主とささやかな二人(正確には一人と一匹だが)暮らしだなんて夢のようじゃないか。
これからは自分がもっと甲斐甲斐しく振る舞って彼女の暮らしに華を添えよう……そう意気込んでいた玉己くんだったのだが、彼を待ち受けていたのは夢子ちゃんとの二人暮らしではなく、夢子ちゃんと、夢子ちゃんの彼氏と、玉己くんの三人(正確には二人と一匹)暮らしだった。
『玉己~。紹介するね。こちらは三つ年上の〝郷田〟さん。彼は今転職活動中で住む所がないみたいだから、しばらく私たちと一緒に同棲することになったの。よろしくね』
その日から、玉己くんにとっての拷問の日々が始まった。
主は、玉己くんがおかしいと思い始めた約一年半ほど前からこの郷田という男と親密な付き合いを始めていたようで、何をするにも彼を中心に動くような節があった。
はじめは単に惚れた弱みだろうとか。
同棲といっても一時的なものだろうとか。
転職活動中なだけだから、職が決まればそのうち出ていくだろうとか。
そんな淡い期待を抱いていたけれど、現実はそう甘くはなかった。
郷田は明らかに稼ぎのいい夢子ちゃんのお金目当てであるヒモ男で、それが証拠に、彼女が三人分(正確には二人と一匹分)の稼ぎに家を出ると、立ち上げていた転職サイトを閉じ、出会い系サイトや卑猥な動画サイトにアクセスして主が帰ってくるまで徹底的に堕落した時間を過ごす。
おまけに彼には密かに軽い猫アレルギーがあったようで、玉己くんに対しての扱いも酷かった。
殴る。蹴る。投げる。踏みつける。時には煙草の火を押し付け、冷たいお風呂の中に沈めたりされたこともある。
もちろんそれらは主がいない間に起きていた出来事で、表面上は愛猫家とでも言わんばかりに可愛がるふりをするのがとても上手なため、彼の行いが明るみに出ることはなかった。
わきあがる嫌悪感に郷田に牙を剥こうとも体格差がそれを許さず、玉己くんには彼の醜い所業を主に伝える術すらない。
次第に玉己くんは頻繁に怪我を負ったり体調を崩すようになったが、不調を訴えようとも仕事で忙しい主は彼を病院に連れて行くことができず、当然その役目は無職である郷田が引き受けた。
『原因不明の風邪のようなものだって~。新居が体に合わないストレスもあるんじゃないかな? この猫、あまり俺のことも好きじゃないみたいだし、いっそのこと夢子の実家に戻したらどうかな~』
もちろん郷田が玉己くんを実際に病院に連れて行ったことなど一度もない。
郷田の口車で一時は実家に戻されそうになった玉己くんだったが、そのたびに元気なふりをしたり、あるいは必死に抵抗を示して夢子ちゃんの元を離れなかった。
彼女を守るためには自分が郷田を追い出すしか道はないことを、玉己くんは十二分にわかっていたからだ。
そうして長らく、夢子ちゃんの目の届かないところで上っ面だけは良い郷田との攻防戦を続けていたある日、玉己くんは夢子ちゃんから衝撃の事実を告げられる。
『ねぇ玉己。私ね、赤ちゃんができたの。お母さんになるんだよ! 産後で忙しくなる前に思い切って家も買うことにしたし、郷田さんの就職先が見つかるまで今よりもっともっと頑張らなくっちゃ』
その事実は、玉己くんの心を粉々に打ち砕いた。
自分はその男のせいで傷だらけになっているというのに。
唯一の味方であったはずの夢子ちゃんは、自分よりも郷田を選んだのだ。
『わっ。動いた! ねえ郷田さん、今、お腹の子が動いたよ! 男の子かなあ、女の子かなあ。名前どうしよう~。ねえねえ郷田さん、どんな名前がいいかなあ?』
そうしていつしか、彼女は自分よりもお腹の子を愛でていると感じるようになり、郷田と夢子ちゃん、そしてお腹の子という血の通った関係を前に、玉己くんは疎外感を感じるようになった。
『妊婦健診行ってきたよ~! 今日も元気に育ってるって。しかも性別は女の子みたいなんだ。楽しみだな~』
夢子ちゃんのお腹が大きくなればなるほどその思いは強まっていったし、それに追い討ちでもかけるよう郷田の玉己くんへの虐待も激しさと陰湿さを増していった。
『ちょっと玉己~。最近、郷田さんにしつこく悪戯して迷惑かけてるんだって? だめだよ~。郷田さんにちゃんと謝らないと!』
――違う。
『玉己! また郷田さんのいうこと聞かず、彼の顔を引っ掻いたの? 私が仕事やマタニティ教室で忙しいからって、いい加減にしないと怒るよ!』
――――違う。あいつが俺の首を絞めようとしたから抵抗しただけだ。
『はぁ。もう玉己……。最近ひどく暴れ回って手に負えないんだって、郷田さんが困ってたよ? このままじゃ彼にも迷惑かけちゃうし、もうすぐ生まれるお腹の子に万が一のことがあったりでもしたら大変だから、最悪の場合、実家に移ってもらうからね?』
――――――違う。そうじゃない。
あいつが夢子の不在時に、新築の家にイカガワシイ女を連れ込もうとしたから制裁をくれてやってただけだ。
にゃあんと鳴いて、いくら真実を振りかざそうとしても夢子ちゃんに玉己くんの声は届かなかった。
むしろ素直にいうことをきかない玉己くんに愛想を尽かしたのか、次第に夢子ちゃんは何も言わなくなり、二人の距離は大きく開き始める。
やがて、出産を控えた夢子ちゃんが実家へ里帰りをして間もなくのこと――。
『おいクソ猫。夢子からの伝言だ。テメェはもう用済みだとよ。クセェしうるせぇし散らかる毛が鬱陶しいし来週生まれる予定のガキに危害が及んでも困るし実家にも迷惑かけられねえから、もういっそのことどこかに捨てこいだとよ。くくく……ざまあねえなあ。まっ、アレルギー持ちの俺にとっちゃ目障りでしかなかったが、ストレス発散にはちょうどよかったし、ガキが生まれたら今度はそっちを玩具にすればいい話だしな。ようやくゴミとおさらばできて清々するぜ』
郷田はそう言って、夢子ちゃんのいない一軒家から玉己くんを連れ出し、近県にある山から投げ落とした。
絶望、悲嘆、失意――。
最期に手向けられた主の伝言の中には、一欠片の温もりも感じられなかった。
でも、それでも、真っ逆さまに落ちながらも玉己くんは諦めなかった。
捨てられるにしても、殺されるにしても、最期くらいせめて夢子ちゃん本人の手で葬られたい。
その一心で必死に競り出た木の枝にしがみ付いて急死に一生を得たが、瀕死の状態で山の麓に辿り着き、命かながら夢子ちゃんの元へ向かおうとした矢先に、車で山を降りてきた郷田に見つかり、故意に車ではねられて今度こそ絶命したという。
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