5-1 悪夢に魘されてるにゃ
◇
(あれから河太郎くんどうしたかな? 学校、来てるのかな……。っと、あれ?)
化け猫の玉己くんと学び舎の裏庭で偶然出会ったのは、それから二日後のことだった。
食堂で顔を合わせて以来、丸二日間は医學部塔で学部専門のオリエンテーションや講義が続いていたため、久しぶりに会う基礎組のクラスメイトでもあったのだが、その時の彼はそれまでの彼とはだいぶ様子が異なっていた。
裏庭の片隅にあるベンチに腰をかけ、さらさらと流れる川をぼんやりと眺めている。そのぱっちりとしたアーモンド状の猫目の下には薄らとクマができ、頬はやや痩けている印象。クリーム色のふわふわした髪の毛やぺたんと垂れた猫耳も、以前見た時よりも艶がなく全体的にへたっているように見受けられた。
(あれは玉己くん……だよね?)
いつも隣にいる相棒の犬飼くんの姿もないせいか、一瞬別人かと目を疑いそうになったけれど、まぎれもなくあれは玉己くんだ。
ちょうどお昼休みの時間だったにも関わらず、彼が昼食をとっているような気配はない。
その日の私は、たまたま自炊したお弁当を持参していたこともあり、限られた昼休みの時間に食堂へ行く必要もなかった。
(迷惑かな……。迷惑……だよね。うん、絶対迷惑……)
ことに彼は、相棒の犬飼くんと共に私を――厳密に言えば『人間を』だが――毛嫌いしている。
それは十二分にわかっていたし自覚もしていたのだけれど、性格上、一度見てしまったものは、やはり放ってはおけなかった。
「……」
「……」
そーっと隣のベンチに腰をかけてみる。
目を瞑って飛んでくるであろう罵声を覚悟していたものの、いくら待っても何の反応もない。
そろりと目を開け、おずおずと彼の方に視線を投げると、
「…………」
「…………」
「……にゃっ⁉︎」
「!」
「お前、いつからそこにいたにゃ! って言うかなんでお前がそこにいるにゃ!」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! 悪気はないんですっ、出来心でつい!」
「嘘こくにゃ! さてはお前、俺を誑かして私腹を肥やす気だにゃ⁉︎ くっそ……俺としたことがここまで距離を詰められるだなんて……おいお前! 何を企んでるんだかは知らにゃいが、俺はもう二度と人間なんかには騙されないんだからにゃ!」
身構えて牙を剥くように私を睨め付けてくる玉己くん。
ど、どうしよう。隣に座っただけなのにまさかここまで露骨に嫌悪感を露わにされるとは。
「あの、いや、その、私は別に貴方を騙すような気は微塵も……」
「はーん。人間のいうことなんて信用できないにゃ。そうやって『あの女』も……っつ……」
「! た、玉己くん?」
尻尾を逆立ててこちらを威嚇していた玉己くんだったが、ふいによろめくようベンチの背もたれに手をつき、青白い顔を顰めた。
「あの……大丈夫?」
「う、うるせぇ。触る……にゃ……」
「ちょっ、無理したらダメだって。顔色、すごく悪いよ?」
「べ、別に、これくらいなんでもな……」
「いいからちょっと座って。だいぶやつれて見えるし、たぶん栄養不足か貧血あたりじゃないかな……。そうだ、午前中に購買で買ったチョコレートがあるから、それを口にすれば少しは……」
「誰が人間の食いモンにゃんかっ」
「……っと」
「……!」
がさごそ鞄の中を漁り、持っていたチョコレートを差し出そうとしたところ、同じく購買で買った紙パックの牛乳がぽろりとこぼれ落ちた。
学び舎の購買には各種族に向けた食料品がいくつか販売されているが、なかでも希少種とされている人間向けの製品は取り扱い製品や品数が非常に少ない。
毎日ラインナップも変わり、今日はたまたま昔懐かしのパッケージに包まれた『牛乳』の日。最後の一点だったことから思わず手に取ってしまったものなのだけれど、これに対する玉己くんの食いつきぶりは凄まじかった。
「寄越すにゃ!」
「へっ⁉︎」
つい数秒前まで頑なに拒絶していたはずの彼はものすごい勢いで紙パックに飛び付き、ぺしぺし付属のストローを引っ掻き回したり、結局うまく引き剥がせず直接紙パックに噛みついたりしてはぐはぐ言っている。
「ぐ、ぐぬぬ……」
「あ、あの、玉己くん、それじゃ飲めないかと……貸して?」
不満そうな顔をした彼から紙パック牛乳を取り戻し、ストローをさしてから彼の手元に戻すと、玉己くんは細い吸い口には見合わない大きな口をガバッと開けてそれにがぶりとかぶりついた。
「……んぐ……んぐ……」
よほど喉が渇いていたのだろうか。紙パックがへこむ勢いで牛乳を吸い上げる玉己くん。
「んぐ……んぐ……」
最初は渇きを潤すように。
胃に落ちる頃にはその味を愛しむように。
やがて五臓六腑に染み渡る頃には――。
「んぐ……ぐす……」
何かを思い出し、込み上げる感情を必死に押し殺すように。
やや痩けたように見える彼のその頬には、幾重もの大粒の涙が伝っていたのだった。
◇
突然の涙にかける言葉が見当たらず、ただ黙って玉己くんの傍にいることしばらく――。
「俺が泣いたこと……誰にも言うにゃよ」
「……うん」
「特に犬飼には絶対に……」
「言わないよ。犬飼くんにも、誰にも」
「……」
すん、と洟を啜る音が聞こえる。
ようやく気持ちが治まってきたのか、彼は両手で持つ飲みかけの紙パック牛乳をじっと見つめながら、大きなため息を一つ落とした。
「何か……あったの?」
「……」
「言いたくないなら無理には聞かないけど……」
赤く熟れた眼でこちらをちらりと見やる玉己くん。
吐き出したい想いがある反面、相手が私だという事実に不満や躊躇いがあるのだろう。
手の中の紙パック牛乳がどちらともつかず前を向いたり後ろを向いたりしているので、思い切ってその背中を押してみることにした。
「大丈夫。あなたが人間に不信感を抱いていて、私のこともひどく毛嫌いしてるってことは充分理解してる。だから、話を聞いたところで無遠慮に距離を縮めようとは思ってないし、周囲に誤解を与えるような行動も取るつもりはない。ただ……」
「……」
「ただ私は、困っているあやかしを助けたくて……妖医になりたくてここにいるの」
「妖医……」
「そう。私、医學部だから。人間にとってこの學園の医學部はよっぽど誠実な志がなければ合格できないって言われてるほどだし、あなたを欺いたところでメリットなんか何一つないから、安心して肩の荷を下ろしてほしい」
嘘偽りない言葉でまっすぐにそう告げると、玉己くんは無言で唇を噛み締めた。
そのまま彼の返事を待つこと約五分――。
「最近……」
「……うん?」
「最近、ずっと悪夢に魘されてるにゃ」
ようやく玉己くんが気持ちに踏ん切りをつけたように、重い口を開いた。
「悪夢?」
「ああ。昔俺を捨てた主が夢に出てきて、呪禁のつもりか何度も何度も俺の名前を怨みがましく呼びやがるんだ。俺を裏切ったのは主の方で、むしろ強い怨みを抱いてるのはこっちの方だってのによ……」
やりきれない思いを吐露して大きく項垂れる玉己くん。
そういえば小雪ちゃんも言っていたっけ。
『確か玉己の方は、大昔に飼い主だった女性に手ひどく裏切られて和解できないまま命を落として妖怪化したから、今でも人間に対して強い怨みを抱いてるとかって噂で聞いたような』――と。
「そっか……。噂で聞いたけど、玉己くんの主って人間の女性だったんだよね? どんな人だったのか、過去に何があったのか、話せる範囲で構わないから聞いてもいい?」
「……」
窺うように顔を覗き込むと、彼は不貞腐れたように唇を引き結んで逡巡していたが、もはや争う気は殺がれたのか、ぽつりぽつりと当時のことを語り始めた。