4-1 落とし物
◇
翌日――。その日は一限目から学部のガイダンスが入っていたため、少し早めに寮を出て正門通りを足早に通過していると、近くの裏路地にちょっとした人集りができていた。
何かあったのだろうかと歩み寄れば、徐々に聞こえてくる威圧的な声。
「あーったくよお。お前のせいでひでぇ目にあったじゃねえかあ。よくもまあぬけぬけとここまで来れたもんだよなあ」
「……」
「まぁ、でもこれも何かの縁だしよぉ。せっかくだから何か美味いもんでもご馳走してもらおうかァ」
どこかで聞いたことのある声……と思うまでもなく、渦中の顔ぶれを見て目を疑う。先日、紅葉大橋で見た鬼の三人組ではないか。
(あの鬼たち……!)
しかも、ダミ声を張り上げているのは私が傷を治した鬼で、すっかり元気になったためか、へたり込む男性――例のニット帽の少年だ――に、何やら陰湿な口調で血気盛んに詰め寄っている様子。
「ちょっとあなたたちっ」
「……⁉︎」
「げっ!」
咄嗟に声を張り上げながら前へ飛び出す私。
先日のように面倒ごとになったらどうしようという懸念も脳裏を一瞬よぎったが、もはや後の祭りだ。
鬼たちは私の顔を見るなり「あいつはやべえ!」と口々に漏らし、血相を変えてその場から走り去っていく。
「あなたたちいい加減に……って、あ、あれ……?」
「……」
「いなくなっちゃった……」
のちに残ったのは学び舎の門人と思しき野次馬たちと、呆然としているニット帽の少年。
「ねぇ、あの娘。噂の……」
「しっ! 聞こえるって!」
「へー、あの子が天堂さんのねぇ」
「なによ、見るからに鈍臭そうな普通の人間じゃない」
「あーあ。これから面白くなるところだったのに……」
「いやでもさすがに天堂さんの番には手を出せないだろー」
周囲の人たちは声を潜めて遠慮がちに野次を飛ばしていたけれど、そのほとんどは筒抜けだった。
いろいろ誤解があるしやはり他者の目は気になってしまうけれど、いちいち突っかかってたら身がもたない。
無言の抵抗を示すようむすっとした顔で周囲を見渡すと、野次馬たちは『まずい、関わったら後が怖いぞ』といったように、そそくさと逃げていった。
――ああ、先が思いやられる。
うなだれつつもふと気がつけば、散っていく野次馬たちに混ざってニット帽の少年までもがその場を立ち去ろうとしていたため、慌てて彼を呼び止める。
「あ、待って!」
「……っ」
ぎょっとしたようにこちらを振り返り、冷や汗を垂らしながら身構えるニット帽の青年。
明らかに警戒されている。ひとまず敵意はないことをアピールしようと急いで鞄から書類を取り出した。
「あの、えっと……。これ、落とし物……」
「!」
彼のものと思しき入学許可証を差し出して顔色を窺うと、彼はパッと顔を上げて一瞬だけ目を輝かせたようにも見えたが、すぐさま沈んだように顔を伏せ唇を引き結んだ。
「貴方の……ですよね?」
「……」
震える拳を強く握りしめ、深く俯く彼。
何かを言い淀んでいるような、必死に堪えているような。そんな空気が伝わってくる。
「昨日もこれを探しにここへ来ていたんでしょう?」
「……」
あまりにも続く沈黙に、今一歩踏み込んでそう尋ねてみるとやがて彼は観念したように重い口を開いた。
「そう、だけど……」
「なら、これ……」
「でも……いい」
「え?」
「もう、いいんだ」
落ち込んだような彼の呟きが二人の間に力なく木霊する。
(一体どういうこと――?)
差し出した許可証に手を伸ばす事もなく、ニット帽を目深に引き下げる河太郎くん。
影がかかった彼の翠色の瞳は、今にも砕けてしまいそうなほど儚く揺れていた。
◇
「昨日は……悪かった」
その後、人目のつかない場所に移動した私たち。河原ほとりに肩を並べて腰をかけると、改めて『河太郎』と名乗った彼の口から、真っ先に出てきたのは思いもよらぬ謝罪の言葉だった。
「何が……でしょうか?」
「昨日――いや、一昨日もだけど、逃げちまったから」
「あ、いえ。気にしないでください。一昨日は私が勝手にしたことですし、昨日はなんで逃げられてしまったのか分かりませんでしたけど、何か事情があったんでしょうし……」
「いや……。一昨日、お前に助けられた後、あんたはてっきり鬼に食われでもしたかと思ってたから。その、化けて出たのかと思って……」
「……へ?」
「よく考えれば幽世にいる限り死ぬことはないのに、気が動転して……アホだよな俺……」
仏頂面で白状する河太郎くんに一瞬目が点になったものの、理解が追いついて笑みが溢れる。
「ああ、それでだったんですね。謎が解けてすっきりしました」
「……」
「心配してたんですよ~。怪我してたようですし、傷口から雑菌が入って炎症でも起こしたら、いくら死なないとはいえひどい苦しみを延々と味わう羽目になるんですから」
「ヤワな人間と一緒にすんじゃねえ。あやかしの体は丈夫なんだ。これくらいの傷……」
「えっ。あやかしだったんですか?」
「気づかなかったのかよ。鬼らにも言われてただろ。『下級あやかしの盗人族』だって」
「盗人族?」
「河童だよ。俺ら河童族は皆、ひょうきんでがめつくて怠け者でろくに働きもせず盗みで生計を立ててる奴らだって、こっちの世界じゃそう揶揄されて蔑まれてる」
「そんな……」
「図星っちゃ図星だし、あやかしが住む三番街でもスラム地区にしか居住できない底辺なのは確かだけどな。くそ……三つ巴のあいつらが好き勝手権力争いしやがったせいで、なんで俺らまでとばっちりくわされなきゃなんねーんだよ」
「……」
辟易するようにそうぼやく河太郎くん。言われて初めて気づいたけれど、彼の洋服はつぎはぎや汚れだらけで、昨日受けた体や顔の傷も野ざらしにされたままだった。
幽世にそんな格差が広がっていただなんて全く知らなかった。
知られざる一面に触れて言葉を失くしていると、河太郎くんは場を取りなすよう話題をそらした。
「ふん。まぁ、俺のことはどうでもいいか。それでお前、なんで鬼たちに絡まれたのに無事だったんだ? お前、人間だよな? 攫われて手籠にされるか食われるかのどっちかだと思ったんだけど……」
「あー……えっと、それは色々ありまして」
「なんだよ色々って」
「それはその、話すと長くなりますので……。あっ。そ、そうだ。それよりも河太郎くん、学び舎では私と同じ基礎組なんですよ」
「!」
「すごい奇跡ですよね。それなのに、入学許可証がいらないって……『もういい』ってどううしてです?」
「……」
核心に触れるようそう尋ねると、彼は膝を抱えたまま押し黙った。
近くの川のせせらぎが二人の沈黙の合間を縫うように流れていく。やや間を置いて、彼はぽつりと口を開いた。
「目的がなくなったんだ」
「学び舎に通うための、ですか?」
「ああ」
河太郎くんは小さく呟いて落ち込んだ瞳を川に向ける。
「俺は現世で〝ある人〟に会うため、死に物狂いで勉強してここまできたんだ。でも……さっきの鬼たちから〝ある人〟はもう死んでるから現世にはいないって、そう聞いて」
「そんな……。どうしてそんなことがあの鬼たちにわかるんです?」
「〝ある人〟ってのは、俺やあの鬼たちみたいな札付きのワルには有名な人間なんだよ。騙されやすくて、お節介で、お人好しで……」
悲しそうに呟いた河太郎くんは、脳裏に〝ある人〟を想い描くようぼんやり遠くを眺めると、ことの経緯をゆっくりと語り始めた。