愛するあなたへ、最後のプレゼント
メア・ローリエがその場面を見たのは本当に偶然だった。
しかし二人の関係にヒビを入れるには十分なものだったのは確かだ。
メアの瞳には仲睦まじげに寄り添い、笑みを浮かべ会話を楽しむ二人の男女の姿が映っていた。
女性は、ふわふわな金髪。童顔だと言われる顔に可愛らしい笑みを浮かべオレンジ色の双眸を細めている。
男性は、整った顔立ちにさらさらの黒髪。女を優しげに見つめる瞳が宝石のような緑だということをメアは知っている。
女の名はマリー・スノーフレーク。メアの一つ年下、ということくらいしか彼女のことを知らない。
男の名はロイド・ローリエ。何を隠そうメアの夫である。
ふと、こちらを向いたロイドとメアの視線がぶつかる。少し目を見開くロイドにメアは困ったような、諦めが混ざった苦笑を浮かべる。
その表情から、彼女は初めからこうなることを分かっていたのかも知れないということが窺えた。
否、本当に彼女は知っていたのだ。
そもそもの始まりは数年前に遡る。
メアとロイドは幼馴染だった。親同士の仲が良く近所に住んでいたため、幼いころから頻繁に遊んでいた。ロイドの方が二つ年上で、いつも兄のように優しくしてくれた。ロイドは口数が少なく静かな少年で、メアも口数が多い方ではなかったため二人の間にはしばしば沈黙が落ちることもあった。しかし、二人はその時間が苦にならないくらいには仲が良かった。
二人の関係を幼馴染以外の言葉で語るなら婚約者、のようなもの。それこそ親同士が口頭で決めた不完全なものだ。その程度の婚約者だったがメアはロイドのことが好きだった。ロイドも否やを言わないくらいにはメアに好意を持っていたのだろう。
そのまま時は過ぎ、相変わらず曖昧な関係のまま二人は結婚してしまった。メアが十八、ロイドが二十の時だった。
メアにはずっと、罪悪感があった。確かに自分はロイドのことが好きだ。愛している。結婚できたのは嬉しいし、彼は変わらず優しく、結婚生活も文句のつけようがないほどだ。
しかし、メアは知っている。ロイドには他に愛しく思っている方がいることを。
それを知ったのは偶然でもなんでもなく、必然と言うべきか。彼女は初めから知っていたのだ。
メアがロイドへの愛を自覚した日から、何度も同じ夢をみるようになる。年齢は二十歳くらいか─彼が自分以外の人を好きになる瞬間をただ見ているだけのもの。それは数年後、実際に起きることだという予感があった。彼女の直感は当たるのだ。
それでも…それでもロイドを諦められなかったメアはその話を誰にも─もちろんロイドにもせず幼いころの約束のまま友達…いや、兄弟のような関係のまま結婚してしまった。
結婚してから一年は上手くいっていた。メアはロイドに未来予知にも似た夢のことを隠し、彼が自分のことを妹のようにしか思っていないことを知りながら妻の座についてしまった罪悪感を抱えながらも、大好きな人と結婚できた幸せにひたっていた。夢なんか気にせず、このまま家族としてぬるま湯のような生活を続けていければ、とさえ思っていた。
きっと罰があたったのだ。そう彼女は思った。
本当に好きな人を思うなら、ロイドと結婚なんかせずに違う相手と、政略でも契約でもなんでも、くっつけばよかったのだ。だって、メアは、こうなることを知っていたのだから。
その日は家にたくさんの人が来ていた。ロイドの職場の同僚やその兄弟姉妹たちだ。職場の交流会のようなものだと聞いている。兄弟姉妹も呼んだのは、この場が婚活の意味も兼ねていたからなのかもしれない。仮にも新婚夫婦の家でやるような行事ではないと思うが…。
果たして、マリー・スノーフレークはそこに参加していた。メアは会ったこともないその女の見た目も名前も、声も、知っていた。そう、夢に出てきた彼女だ。ついにその時が来てしまったのだ。
マリー・スノーフレークは、ロイドの友人の妹だった。マリーの兄がこの婚活のようなパーティーを企画したらしい。マリーとロイドはすでに何回か会っていたようでお久しぶりですというあいさつの後、あまり表情の変わらない彼にもにこやかに話しかけていた。おしゃべりが好きらしく、相槌くらいしかないのに楽しそうに話している。
メアとロイドが幼馴染で、ロイドがメアに妹のような感情しか持っていないことは周知の事実なのか、メアもまた、ロイドを兄のようにしか思っていないが成り行きで結婚した、と思われているらしい。新婚の妻が近くにいようと構わずロイドにスキンシップをする女性はマリーの他にもたくさんいたし、メアを遠回しに口説こうとする男もいた。他の男に口説かれるのも煩わしく、ロイドが女─とくにマリーと話しているとこを見たくなかったメアは、早々に屋敷に引っ込み、庭の喧騒を聞きながら一人、静かな屋敷の中で己の感情と戦っていた。
ロイドのあんな顔、見たことない。
彼女に向けられた眼差しは、優しかった。
妻は私なのに。
心変わりした彼のあんな顔なんて見たくなかった。
違う彼は心変わりなんてしていない。
だって彼の気持ちは初めから私になんて向いてなかった。
こうなることが分かっていたのに彼が反対しないのをいいことに結婚したのは私。
ああ、なんて私は自分勝手なのだろう。
いつから私はこんなに嫉妬深く、醜い女になってしまったのだろう。
彼の幸せを願っていたはずの清い少女は、彼の幸せを邪魔する醜いなにかに成り果ててしまった。
叫びだしたい衝動をこらえ、ふと視線を上げた先。未だ賑やかな庭が窺える窓。
メアの瞳には仲睦まじげに寄り添い、笑みを浮かべ会話を楽しむ二人の男女の姿が映っていた。
もちろん、ロイドと、マリーだ。
メアの視線に気が付いたのだろうか。ふと、こちらを向いたロイドとメアの視線がぶつかる。少し目を見開くロイドにメアは困ったような、諦めが混ざった苦笑を浮かべる。
最初からこうなることを知っていたメアが、ロイドの表情を見て最終的に行きついた答えは、諦めだった。
彼女はロイドから視線を外すとそのまま踵を返し自室に戻る。
そして鍵付きの引き出しから一枚の紙を取り出した。
そのまま机に向かい愛用の万年筆で必要なことを書くと、メモ帳にも何事か書きつけピッと切り取り二枚のインクを乾かす。
そして必要最低限の荷物と少しのお金を持つと、そのまま家を出た。
彼女が去ったそこには楽し気な笑い声と半分だけ記された不完全な一枚の離婚届だけが残っていた。