ルダ
ルダ・スダロスカヤは傾斜のついた硬質ガラスに両手を張り付けて、その向こうの景色に見入っていた。
角度のついたガラス窓だったので、寝そべるような姿勢になってしまい、寄りすぎた自分の息でガラス面はリズムをもって曇った。
ルダは見えにくくなった景色を求め、窓際を横へ横へとずれていった。
突き刺さりそうな針葉樹林の海が眼下に広がり、その深緑は流れる川のように速く、後ろへと過ぎていく。
薄靄に煙る地平を望めば、遥か彼方、永遠にそこには着かないのでは、と思うほどに遠く、遅く。
ルダは、一面緑の地平に飽き始めていた。
時折、雲間からのぞく太陽にハッとすることはあっても、それは一瞬でいて気がついた時からずっと曇り空だったし、大空だけの景色というのは意外にも退屈なものだった。
広がる緑の絨毯と、薄靄の空。心躍らせる色彩は限られていて、単調な景色の繰り返しでうんざりだった。
「ずっとこんななのかしら?」
ギュっと握り閉めた窓枠サッシからは、ブーンっと機械の振動が伝わる。そして、そのサッシに耳をくっつけると、ひんやりとした感触と同時に「ゴウンゴウン」と、さらに唸る重低音が聞こえてきた。
従業員、乗客総勢97人。
アルミニウム合金の骨格を持つ硬式大型飛行船は、1200馬力のディーゼルエンジンにより、時速130キロになろうとしていた。
水素ガスを封じ込めた、円筒形の、あるいは万年筆を寝かしたような船体の全長は240メートルを超える。
巨体は大空のしじまに、その静寂をやぶることなく、雲にまぎれて悠然と行く巨大な白鯨のようだった。
ルダは、淡いブルーの余所行きのスカートの皺を、はたいてなおした。そして、窓ガラスを背にしつつ、振り向き様に大きな壁にドンっとぶつかった。
「大丈夫ですか?小さなお嬢さん」
見上げれば、黒い服を着た男が、ルダの肩をかばって支えていた。
「ルダよ。どなた?」
ルダは、鼻を撫でながら、男を突き放した。
男の背は高く、軍服のような身なり。色白の表情は彫刻のように硬い。
「プルス船長です。スダロスカヤのお嬢さん。大空の旅はいかがですか?」
ブロンズのような表情ではあったが、その声は温かで柔らかい。
気が付けば、ルダのいたプロムナードデッキには、船長と同じような表情の人々ばかりだった。
床に打ちつけられたクイのように、皆、微動だにしなかった。正確には、手振りをしたり、肩が動いてはいたが、見上げるルダには銅像のように。
「みんな退屈しているのね。森ばかりだし、お天気じゃないから、私もたのしくないわ」
船長は、シルバーに輝きを放つ懐中時計を手にした。
「まだ200メートルにもならない高さです。もうすぐ、うんと高くあがりますよ。それまで、サロンにいらしては?」
船長は優しくルダの背中を押すと、ラウンジの隅にかたまる大人たちの集団にまぎれて消えた。
木々の合間をぬって、緑の光と戯れるように、ルダは立ち並ぶ大人たちの間をすり抜けた。
そして、広くはないデッキ全体の、奥の方から、かすかだがメロディが聞こえた。
「ピアノだわ」
同時に、蒼白の人々は体ごと振り向いた。
サロンの隅にはブリュトナーのグランドピアノがあった。
皆と同じような蒼白の男性が、細くしなやかな指で、鍵盤を撫でるように叩いていた。
つまびくメロディは、悲しげで、ポロポロと涙がこぼれ落ちるようなソナタだった。
人々は、引き寄せられるように、ワイングラスやタンブラーを手に、ぞろぞろと、しかし無音のままにピアノを囲った。
「お葬式みたい」
グランドピアノの周りに、椅子やテーブルをかわすように、いびつな円ができていた。
そして、これから献花でもするかのように人々はうつむいて。メロディのせいか、その無表情は悲しげに。
「ママはこんなの好きじゃないわ。やめてちょうだいって、お空から怒鳴ってきそうだわ」
メロディは、サロンに響き渡り、その音一つ一つが床に落ちていった。
「でも聴いたことある曲」
蒼白の人々は、グラスが手にくっついたように、それを動かすことはなかった。彼等は、メロディに縛られて動けないでいるようだった。
彼らが根を生やしたような足元からは、かすかに、デーゼルの振動音が伝わる。しかし、船内は至極平然としていて、列車や客船の様に揺れることはなかった。
「あ、上がった」
一瞬、持ちあがるような感覚に、ルダはすぐに気が付いた。
おそらく、周辺の人々もそれに気付いたはずではあったが、静寂に流れるメロディにその身を委ねるように、やはり反応はなかった。
ルダは、一段高いサロンから、さっきまでいたプロムナードに駈け足で降りた。斜め下向きに設置された窓ガラスに、やはり、先ほどの様に張り付いた。
「わあ、天国みたい」
眼下の深緑の海は消え、一面骨色の雲が、生クリームのようにうねりをもって敷き詰められていた。
そして、誰か、飛行船よりも大きな巨人が、手で扇いでいるかのごとく、おぼろな雲は波打っていた。
その骨色の湖面には、ルダの乗る巨大な万年筆が影を落とし、さらに、輪郭をなした虹がブロッケン現象としてその万年筆を囲っていた。
飛行船の背中よりもずっと高い所から、遮るものの無い太陽は、容赦なく白銀の巨体にその光線を浴びせかけた。
「わぁ」
ルダが声を上げたのと同時に、骨色の波打つ湖面から、次々と、白銀の巨体をもった飛行船が背中を見せて浮上してきた。
一隻、二隻・・・五隻・・・十隻・・・・。
250メートル級の、飛行船がルダのいる飛行船を追うように、群れをもって、次々とクリームにうねる雲海から、その巨体をあらわした。
「いっぱいだわ!」
その船団の数は二十をすでに超えていた。
ルダの飛行船に追随するように、白銀の飛行船は規則的な間隔をもって、編成を成して、雲海より解き放たれて航行していた。
一隻が、ルダのいる飛行船に並列して飛行していた。近付くでもなく、離れるでもなく。
そして、こちらの船影で、はっきりとはしなかったが、船体の下腹部にあるデッキ窓に、人影があるのを、ルダは見逃さなかった。
「ほら、女の子!わたしと同じくらい」
ルダは、誰かに認めてもらおうと、周辺をキョロキョロした。
ピアノに群がっていた蒼白の大人達も、こちらへ視線を投げていたが、ルダを無視するかのように、その視線は窓の向こう、何を捉えているのかわからない。
確かに、ルダが見つけたデッキ窓の人影は、少女だった。
向こうもルダに気付いた様子で、こちらに、ルダに手首だけ小さく手を振っていた。
対してルダは、背伸びをして、肩が外れんばかりに手を振った。
「おーいい、おーいい」
デッキの静寂を破るように、大きな声で。
無表情で、悲しげな大人ばかりの船内で、やっと見つけた友人を手放すまいと、ぶんぶん手を振った。
「わぁ、名前なんていうのかしら」
ルダは「るううだああ」と声にはせずに、口を大きくあけてジェスチャーをした。
それが向こうの少女に見えるとは思えなかったが、そうしたくて止まらなかった。
ルダは元気に、ただ、ただ手を振っていた。
一瞬、少女の飛行船にかぶさっていた、ルダの飛行船からの影が外れた。黒と白の幕が交差する合間に、向かいの少女の姿が明確になった。
その顔、表情はルダのいる、船内の人々同様に、青銅のごとく硬質で表情が無い。
ルダは疲れてしまって、手を振るのをやめた。
ただ、届かぬ声を伝えたくて、その場でピョンピョンとかかとを弾かせた。
同じように、向こうの少女も、手を振るのを止めた。そして、窓ガラスに両の手を付けて、動かなくなった。
「あ、まって」
こちらが離れたのか、向こうがそうしたのか、お互いの飛行船はグングンとその間隔が離れ、ガラス向こうの少女は、光線の反射で見えなくなった。そして、いつしか見分けのつかぬ船団に紛れてわからなくなった。
「どこへいくの?」
ルダの肩に、感触があった。
振り向いて、置かれた手を追って見上げれば、プルス船長がいた。
相変わらずの、硬質でいて温かな声が、静かに響いた。
「うんと長い間、わたしたちは旅をしてきました。あの女の子も同じです。あそこの船も、あちらの船も一緒です」
ガラス窓越しに、船長はゆっくりと言葉の通り指をさした。
入れ違いに並行する船、遠くの豆粒のような船、どの飛行船も同じ方向を進んでいた。
「長い間、変わらぬ毎日を過ごしてきましたが、ようやく地上に、故郷に帰れるのです。わかりますか、お嬢さん」
ルダは首を振った。
「もうすぐに、皆おうちに帰れるのですよ。思い出されましたか?」
ルダは首を振りながら、ポロポロと涙を流した。
ソナタのように、床に濡れ色のメロディが染みわたる。
船長の手がフワリと肩から離れ、ルダはデッキをトボトボと歩き出した。
客室の洗面台に、ルダは、ポツリと立っていた。
「パパ、ママ」
鏡に映る表情は、小さく手を振ってくれたあの少女同様、船長同様、ラウンジの人々同様、青白く、やつれ、生気が無い。
うんと遠い、うんと深い所から、ルダは色々なことを思い出した。
その断片的な思い出は、聴きなれたピアノのように明確であったが、打ちこまれる鍵盤の一つ一つが悲しみに満ち満ちていた。
船団は、まるで合図をしあっていたかのように、高度を下げた。
骨色の雲海に、おぼろなガスをまき散らし、巨体の群れは、次々と埋もれていった。
深海のプランクトンを狙った白鯨のごとく、船団は緩やかに角度をつけ、悠然と高度を下げていった。
永遠とも思われた深緑の海はそこには無く、飛行船団が地平のその先に辿り着いたのがわかった。
そして、高度200メートルほどを維持して、船団は編成を保ったまま、足並みを揃えた。
「おお・・・」
デッキ窓の大人達が、静かに、こぼれるように口々にした。
ただし、こわばったままに、その驚嘆にみあった表情を作れぬままに。
飛行船が低空飛行でなぞるように行く大地は、黒色の煙が渦を巻いて地表からいくつも立ち上がっていた。
明らかに、自然のものではない、どす黒いのろしの様な煙が、ほうぼうで、巨大な黒色の木々の様に揺れずにあった。
そして、その黒煙の周辺は、さっきまで炎の海を連想させる、茶褐色の、または赤黒い煙がもうもうと波となって埋め尽くしていた。
それら、煙の隙間を突き刺すように、半壊した高層建築物が列をなしてあった。
建築物のガラス窓は全て砕け失われており、同方向に建物は斜めに傾いていた。
中には、横倒しになった建物や、未だ炎をチラつかせる家屋が見受けられた。
都市をぬうように張り巡らされた道路には、自動車が敷き詰めて放置され、やはり黒煙と炎をくすぶらせていた。
都市は煙と炎に覆われ、その光景は果てしが無かった。
低空にあった飛行船団は、あわや、倒壊する高層建物に接触するまでに。
その瞬間ごとに、船内の人々は、静かな声を発した。
「わたしのいた町じゃないわ」
ルダは、無表情に。
ガラス面は曇らなかった。
「あんな、おおきな塔みたいな建物なかったもの」
煙と炎で、都市は陽炎に揺れていた。
「でも」
ルダは、陽炎の都市を見据えて、目をそらさなかった。
「みんな帰りたいのね」
覚えのある声が、ルダの背後でした。
「そうです。まもなく着陸です。お嬢さん」
ルダの蒼白の頬に涙が一筋。
声に振り返ることなく、瞳は鏡のように。
記憶の断片をつなぎ合わせようと、パズルのピースを拾い上げては、眼下の揺れる黒煙に放り込んだ。
ルダの飛行船と、都市を覆うように広がっていた船団は、さらに高度を下げた。
そして、黒煙と炎の都市にその巨体を埋めるように、高層建築の隙間に降下して、消えて、見えなくなった。
骨色の雲海を遊覧していた遠い記憶の船は、やっと、皆が待つ故郷に帰ることができたのだ。
おわり