7話 貴女のいた世界 1/2
蝉の声がいつもよりうるさい気がした。扇風機がぬるい風を顔に当てる。
机を挟んで前に座っている義父、大祐さんは私の言葉を聞くと、コップに入った水を飲み一呼吸おいてから口を開いた。
「もう一度、聞いていいかな。夏希は中学校を卒業したら。進学せずにうちの研究所で働くつもりなのかい?」
「……はい。これ以上、大祐さんたちのご厚意に甘えるわけにはいきませんから」
この言葉は嘘だ。私は隣に座っている悠のことを見た。彼女は話題自体に興味がないのか、スマートフォンの画面を見ていた。
「今では君のことを本当の娘だと思っているんだ。だから厚意だなんて考えなくていいんだよ」
「でも……」
なんと言えば、大祐さんは納得してくれるのだろう。別に私は家族の一員ではないと拗ねているわけではない。それでも、心の中で間に線を引いてしまう。
私は研究のモルモットだ。そのつもりだったし、それでよかった。どんな理由であれ、悠の隣にいることができれば理由なんてどうでもいい。
「あのさぁ、ナツが決めたことなんだから私たちがどうこう言える話でもないんじゃないかなぁ。ま、ナツもナツで焦りすぎだとは思うけど」
突然悠が会話に割り込んできた。
焦りすぎなことくらい自分でもわかっている。だがどうしても抑えることができない。
「お前は部屋に戻ってなさい」
「はぁい」
「私も、やっぱりもう少しだけ考えさせてください」
そう言って、私たちは自分の部屋に戻った。
悠の横やりがなければ私は確実にボロを出していただろう。
「こ、こわかったぁ……」
部屋に戻ると、私は無意識に悠に抱きついていた。悠はそんな私の頭を撫でる。
「だから正直に言えばよかったのに。私と一緒にいる時間がもっと欲しいからって」
悠は意地悪そうな笑みを浮かべた。
私は何も答えずにベッドに倒れると、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「無理だよ。ホントのことだから」
彼女に聞かれないよう、小声で呟いた。
悠は冗談で言ったつもりかもしれないが、それが答えなのだ。
アルバムのアプリを開く。悠とのツーショット写真が何枚も表示される。大祐さんは何故かカメラが苦手で、極力写真に写りたがらなかったため結果的にアルバムには私と悠の写真ばかりになっていた。
──私は悠のことが好きだ。
家族としてではない。一人の人間として、彼女のことを愛していると言ってしまってもいい。きっかけはわからない。五年間、彼女と過ごしてきて自然と芽生えた感情だ。まだこの気持ちは彼女に伝えていない。
「でもどうするの? 私はナツの気持ちを尊重したいけど、別に研究をもっと手伝えーって無理強いするつもりもないよ?」
「うん。それでも、もっと研究に参加したいな。そうすれば、治療薬だって早く作れるかもしれないし」
これも一応は本音だ。
パンデミックから十五年が経過した今でも、屍人化を防いだり、屍人となった人間を治療するような薬は開発されていない。
その原因は私にある。
三年ほど前に起きた私の誘拐騒動以来、唯一屍人に対しての抗体を持っている私の存在は徹底的に隠されている。
私のことは研究所のメンバーしか知らない。世間に知られれば、新たな火種になりかねないというのは理解している。しかし、私の存在を隠しながら研究をしているせいで、進行が大幅に遅れているのも事実だ。
「うぅん、確かにナツに手伝ってもらうのは助かるんだけど……。別に毎日採血とかしたって、開発が早まったりはしないと思うなぁ」
ぐうの音もでない。
「それでも……」
続きの言葉が出てこない。結局、それが例え本当に思っていることだとしてもだ。一番の理由、悠と一緒にいたいという本音を隠すための言い訳でしかない。
「まあ、まだ時間はあるんだし、もう少し落ち着いて考えよ?」
彼女の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
★
「……なんでこんな時に、悠の夢を見てるんだろ」
目を覚ますと、そこはいつもの車の中。今日の戦闘のせいで穴だらけになった窓から、夜風が入り込んでくる。こんな状態でもまだ走れるのだが、流石に替え時だろう。肝心の新車のあては全くないのだが。
欠伸をしながら、窓の外を眺めた。寝ている間に時刻は夜になっていた。
感染したユウジを殺し、ユキから想いを告げられそうになった後、車内の雰囲気は最悪のまま進んでいた。
その空気に耐えきれず、まだ日は高かったが今日はもう休むことになった。
助手席を見ると、ユキが目を閉じている。
「ユキ、寝てる?」
問いに返事はない。本当に寝ているのか、それともただ私のことを無視しているのか、判断に困るところだ。
「そういえば、あの後どうしたんだっけ」
ユキに聞かれているかもしれないが、構わずに独り言を呟いた。
夢で見た十一年前のあの日の続き。たしか、あれから何事もなく数日ほど過ぎ、悠と大学にある研究所に行ったはずだ。そこでまだ若かった頃のクジョウと会い、そして……。
目を閉じるとすぐに思考がぼやけた。水の中をゆっくりと底へ落ちていく感覚がする。気づくと私はまた夢の世界へ足を踏み入れていた。
そして、夢の中で再び過去の光景が浮かんできた。
★
悠と歩きながら、青い空を見る。作りものではない、本物の空。
日本最大級の広さの、旧東京都第一区域。そんな場所に建っている大学に付設された研究所で、私たちは屍人の研究をしていた。
「あれ? 悠先輩、今日は妹さんと一緒なんですね」
研究所への通路の脇に設置された喫煙所で、クジョウがいつものようにタバコを吸っていた。
「まあね。てか九十九タバコやめるってこの前言ってなかった?」
クジョウのことを名前で呼ぶのは悠だけだ。
最初に会った時、「この名前、変だし気にいってないから呼ばないで」と笑いながら言っていたことを思い出す。……彼女は今も自分の名前を嫌っているのだろうか。
私は一度も彼女のことを名前で呼んだことはない。そして悠以外の人間が呼んでいるのも聞いたことがなかった。
「無理に決まってるじゃないですか。これが無いともう生きていけませんよ」
そう言いながら、深くタバコを吸う。タバコへの興味はないが、あまりにも彼女が美味しそうに吸うので少しだけ味が気になった。
「うわ、ヤニカスじゃん」
「そうですよぉ? 私は先輩みたいに縋れるものを持ってないんですから、しょうがないですよ」
悠に直球の罵倒を浴びせられても、クジョウは顔色一つ変えない。悠はつまらなそうに唇を尖らせた。
「まあいいや。私たち先に行くから、九十九もそれ吸い終わったらさっさと来てよね」
「はぁい」
悠は私の手を握り、早足で研究所に向かった。クジョウは軽く手を振りながら、私たちのことを見送った。
「採血の結果出た?」
研究室に入ると、悠はブツブツ言いながらモニターを見ている男二人、蓮田と光井に聞いた。
「一応出てますけど……、いつもと変わりませんよ」
光井が首を横に振る。
あらゆる方法で検査をしたが、数値だけを見ると私は普通の人間と同じらしい。
「あんまり言いたくはないんですけど、やっぱり夏希ちゃんって普通の人間なんじゃないですか?」
「五年間研究してるのに、何の成果もありませんからね」
二人が私のことを冷めた目で見ながら言う。やはり彼らのことは苦手だ。
その理由は単純、施設で暮らしていた頃に会った大人たちと彼らは似ているからだ。
「でも、実際にナツは噛まれてるのに発症してないんだし」
悠が私の右足を見る。記憶にはないのだが、幼い頃に私は区域内で発生した屍人に噛まれたことがあるそうだ。
本来なら即処分されるはずだったが、私の経歴に興味を持った研究者の申し出で隔離され経過を観察されることになった。そしてその研究者が、大祐さんだ。
この一件が、私を海老原家に招いた理由の一つでもあるらしい。
「さあ? 抗体持ちって言えばボロい施設から逃げだせる理由にもなりますし、偽装でもしたんじゃないですか? ……あっ」
光井がわざとらしく口を押えた。
別に口が滑ったわけではないのだろう。そう私は直感で理解した。
きっと、私が抗体を持っていることを信じている人間は少ない。信じてくれているのは、実際に見た大祐さんと、私のことを信頼してくれている悠とクジョウくらいだ。
……なら私はどうなんだ。自分で自分のことを信じることができない。もしかしたら、私はずっとみんなに嘘をついているのかもしれない。そう思うと、不安で狂いそうになる。
「ふざけないでよっ!」
突然の叫び声。悠が光井に掴みかかっていた。元々二人の仲は悪かったのだが、こんなに激高する彼女の姿を、私は初めて見た。
「お、落ち着いてくださいよ……。光井だって悪気があって言ったわけじゃ、みんなピリピリしてるんですよ」
「何? ピリピリしてたら何言ってもいいわけ? 私の大切な人たちを嘘つき呼ばわりしても許されるの⁉」
「そういうわけじゃ……、とにかく落ち着いてください」
険悪な雰囲気に戸惑ってしまう。本来なら、私も悠をとめるべきなのだろう。でも、私は光井の言葉を否定することができない。
彼女は私のことを信じてくれているのに、自分で自分が何者なのかわからなくなる。
悩んでいると、入口の扉が開いた。
「声聞こえたんですけど……、何かありました?」
クジョウが困惑した表情で立っていた。
「別に、なんでもない」
「なんでもない⁉」
今度は光井が悠に掴みかかる。もうめちゃくちゃだ。
するとクジョウが私の手を掴んだ。
「そうでしたか、じゃあちょっと妹さん借りますね」
「え……?」
そのまま外へ出た。
彼女が私に何の用があるかわからないが、そんなことより私は悠のことが心配だった。
「いやぁ、悠先輩めちゃくちゃ怒ってたねぇ」
先程の喫煙所まで戻ると、クジョウはポケットからタバコを一本取り出した。
「……また吸うんですか」
私は呆れながら言った。
「というか、どこから聞いてたんですか?」
「あれバレてた? まあ、蓮田くんたちが二人のことを露骨に煽りだしたところからかな」
……じゃあほとんど最初からじゃないか。
そんな野暮なツッコミをする気にはなれなかった。
「話ってなんですか」
「ちょっと前に教授から聞いたんだけどさ、夏希ちゃん高校行かないの?」
「……はい」
「どうして?」
クジョウの真剣な表情を見て、私は正直に話すことにした。
誤魔化したところで彼女が何か言うことはないだろう。だからといって、彼女に嘘を吐くのは気が引けた。
「笑ったりしませんよね?」
「しないよぉ。私がそんな酷いことをするような人でなしに見えるの?」
見えないと言ったら嘘になる。
「少しでも、長い時間を悠と一緒にいたいんです。こんな世界ですし、いつ悠と離れ離れになるかなんてわかりませんから。……それに、好きなんです。悠のことが」
「なるほどねぇ」
クジョウがタバコを深く吸うと空を見上げながら煙を吐き出した。その顔は先程と違い、一瞬だけ苦痛に歪んでいるように見えた。
その理由は、あの時の私にはわからなかった。
「悠はまだ時間もあるし、もう少し考えた方がいいって言うんですけど」
「たしかに、こんなご時世で受験なんてシステムが形骸化してるとはいっても、悠はのんびりしてるよなぁ。世界はペーパーテストと違って考えたところで答えの出ない問題だってあるのにね」
「じゃあ──」
「でも、夏希ちゃんは焦りすぎ。すぐに答えを出しちゃったら足元を掬われるよ」
クジョウの言葉に何も言い返せない。たしかに、私は焦っている。自分でも理解している。
このままだと悠に置いて行かれるのではない、そう勝手に恐怖しているのだ。
するとクジョウは「そうだ」と呟いて私の肩を叩いた。
「もう少ししたら芙由香さんの命日でしょ。そのお墓参りの時にでも先輩に想いを伝えたらどう? ちょっと不謹慎かもしれないけど」